「性根」を知ってもらうブログ

このブログを立ち上げて3ヶ月半ほど経ちました。

最初は堅苦しい内容をがんばって書いていましたが、続けるうちにいい意味でどうでもよくなってきました(笑)。肩の力が抜けてきたというか。

このブログをつくる際にいちばん考えたのは、「誰に何を伝えるか」ということでした。

たとえばこのブログに仕事を得るという目的をもたせるのであれば、もっと明確なコンテンツをつくれたはずです。自分の仕事の実績をバーンと出して、ライティングスキルを分かりやすく解説するようなハウツーを書いたりして。

でもそういうブログにはしたくありませんでした。

じゃあ、誰に何を伝えるの?――。

その堂々めぐりにはまり込んでいました。

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これまでも自分のサイトやブログを幾つもつくってきたわけだし、今回も新たにブログをひとつ立ち上げるくらいでそこまで悩む必要もないにもかかわらず、あーだこーだ考えているとき、妻がいい言葉を教えてくれました。

「性根」

「ライターとしての性根を伝えるブログにしたらいいんちゃうの」――と。

「性根(しょうね)」を辞書で引くと、「その人の根本の心構え」「心の持ち方」といった意味が出てきます。大ファンの宮本輝の小説で「心根」という言葉が出てきて大切にしていますが、性根もその心根に似た言葉のようです。

仕事でも何でもそうですが、人や社会に役立つことをしたいなと思ったとき、何をするかも大事ですが、誰とするかはもっと大事なように思います。

同じ志やビジョンを持って誰かと何かをするためには、まず自分とは誰かをさらけ出す勇気が必要だと、嫁さんから性根という言葉を聞いてすんなり腑に落ちました。

結果として、このブログでは自分がふだん大切に思っていること、考えていることなどを、内容的には面白くなくても地道に書いていこうと決めたのでした。

ただし、まったく脈略なくひとりの人間の思いを垂れ流してもあれなので、3つの立場に切り分けて、それぞれの立場に沿った内容を意識しながら書いていくことにしたわけです。

だからなんというか、このブログは全体的に何がしたいのか分かりにくいサイトではありますが、自分という人間をさらけ出す受け皿になってきたかなという感触はあります。

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ついでに付け加えると、このブログの立ち上げは自身の仕事の経験やスキルを見つめ直すきっかけになりました。

その思考の延長線上で「企業出版」に関する何らかの事業を展開しようかなと、新たなアイデアが生まれていま準備中です。当初はその事業内容をこのブログ内で公開していきますが、ある程度全体像が固まった段階で別サイトを立ち上げる予定です。

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ハンマー投げの室伏選手が語ったひと言に衝撃

きのう、家族で外出先から帰宅してテレビをつけるとタイミングよく陸上のゴールデングランプリ川崎が行われていました。

男子100メートルは9秒台の重圧と向き合う桐生選手、ボルトが持つ200メートルの世界ユース大会の記録を破った高校生サニブラウン選手、2012年のロンドン五輪で準決勝に進出した山縣選手と、3名の日本人選手が名を連ねて手に汗握りました。

結果は2015年世界選手権銀メダルのガトリン選手が10秒02(-0.4)で制し、2位は10秒21で走った山縣選手。桐生選手は4位に沈み、サニブラウン選手は5位でした。

世間的には桐生選手の記録更新も待ち望まれますが、ぼくは山縣選手の復活が嬉しかった。

ロンドン五輪後は怪我に苦しみ、その後は桐生選手とサニブラウン選手にスポットライトが切り替わり、山縣選手がメディアに登場する機会はめっきり減っていました。

辛かっただろうなと思う。インタビューで山縣選手が「緊張した」と何度も言っていたのが印象的で、意識しないわけにはいかない2選手と並んで走るという極限状態の中で競り勝つというのは実力意外の何ものでもない、そう感じました。

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同時に、走るたびに9秒台を期待される桐生選手も気の毒だと思いました。

100mの記録は心身の調子だけでなく、風向きや気温、天候などの気象条件も大きく左右します。すべての条件がピタリと整った状態でようやく「出るか、出ないか」――という勝負の世界なので、毎回、結果だけを見て「9秒台突破ならず」と評価されると酷だと思う。

でも本人の口から外部環境を引き合いに出して、記録が出なかった理由を説明するなんてできませんからね……。

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とはいえ勝負の世界では、ここ一番で勝つ選手が強いです。残酷なほどに結果がすべてです。プロセスも大事というけれど、いくらプロセスが充実していても、結果が出なければ意味がない。それが勝負の世界です。

でも……。

ハンマー投げの室伏選手のこの言葉を知って鳥肌が立ちました。

「投げるのは、結果」

将来有望な高校生のハンマー投げ選手に室伏さんが教える番組を以前やっていました。

「投げる前の準備動作や体のつくり方、フォームのつくり方、日々の練習、そこですべてが決まる。投げるのは、結果」

こう語る室伏さんの言葉を高校生がどれほど理解していたかはわからないけど、テレビの前のぼくは口から泡を吹いて倒れるほど衝撃を受けました。

「投げ急ぐ」という言葉がありますが、結果を求める気持ちが強いほど体の動きのバランスが崩れ、記録はでません。そうではなく、投げるまでの準備に最善を尽くせば、あとは「投げる」という投擲動作そのものですらが結果となる。

室伏さんにとっては、もはや記録は結果ですらないかもしれない。記録は「おまけ」程度というか。

いや、室伏さんの言葉の真意を推し量るすべはありませんし、ぼくの理解力で表現するには無理があります。それでも、ハンマー投げという競技を超えて修行僧のように鍛錬を重ねる室伏さんの表情には、記録を短絡的に追求しているのではないという思考の痕跡が刻み込まれているように感じます。

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これまでのプロセスの結果である競技動作の、さらにそのおまけでしかないかもしれない記録を、目標として追い求める矛盾と難しさ。このプロセスと結果の葛藤を乗り越えた選手が真に「強い」ということか。

9秒台が常に期待される桐生選手もそうだし、国内外の第一線で活躍する陸上選手には、ほんとうに頭が下がります。

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明窓浄机は人それぞれ?

いま書籍の原稿を書いていて、デスク上に資料が散乱してきました。

ふと思い出したのが昔、自分のブログに書いた記事。2010年の記事だけど、いまも昔も同じだなあ。

 

(昔の記事)

仕事が乗ってくるほどデスクの上が資料でめちゃくちゃになる。

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2010年当時のデスク

他人が見ると整理ができないダメ人間に思われるかもしれない。でも、散乱した資料には自分なりの秩序があり、必要なものはおおむねすぐ探し出すことができるから不思議だ。

雑踏に身を置くことで逆に集中できることがあるように、カオスの中にこそ自分なりの規則を発見できるのかもしれない。仕事ができる人の机を見ると、上に何も置かれてなかったりすることがある。でも、清らかな机の上では仕事ができない人だっている。僕のように。明窓浄机は人それぞれなのだ。

仕事の合間のひとり言。

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ゴーストライターの役割

著者から話を伺って、聞き書きのスタイルで一冊の書籍を書き上げる仕事をしています。

こういうタイプのライターを世間一般では「ゴーストライター」、このブログでは「書籍ライター」「ブックライター」と呼んでいます。

ゴーストライターをずっとやっていると、聞き書きスタイルで書かれた本をなんとなく見わけられるようになってきました。

ゴーストライターがまとめた書籍の原稿はたしかに読みやすいです。でも反面、内容が薄いことがある。

極端にいうと、たった一文で済む内容を2000文字にまでふくらませているような。

本題に入るまでの導入や例え話がやたら長く、ようやく本題に入ったかと思うと、早くも締めに向かい、「あ、この一文を言いたいための展開だったのね」と納得するという。

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ぜんぶがそうではありません。

優秀なゴーストライターが書いた本は著者ご本人がまとめるよりも文章的に読みやすいのはもちろん、内容自体も幾度のインタビューを通してアウフヘーベンしているため、濃密で、論旨も通っている。

インタビューの目的は、著者がすでに自覚している考えを引き出す側面と、著者に気づきを得ていただく側面のふたつがあるように思います。

とくに後者が重要で、取材のやりとりを重ねるうちに著者の頭の中で化学反応が起きて、これまで漠然としていた思いを整理してもらったり、新たな考えやアイデアを思いついてもらったりすると、インタビュアーとしては「よっしゃ」と心でガッツポーズすることになります。

そんな有意義な取材を経て書かれた原稿は内容的にも濃くなるように思います。

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著者自身の手によって書かれた原稿は多少難解な面もあるかもしれないけれど、その一文、その一文字のすべてに背景があります。

これまでの経験が文章に凝縮して乗っかっているから、その一文、その一文字に、すべて物語がある。だから深い。読みにくくても、そういう本に出合うとうれしいです。

一文を2000文字にふくらませるような書き方ではなく、著者自身がこういうことを言いたかったと膝を打つような原稿をもっともっと書けるように、少しずつでも成長していきたいと思います。

書籍の実績はこちら⇒(ゴーストライター 実績

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てんとう虫は神様です

てんとう虫は神様だと思っています。

4歳の娘が保育園のもも組(3歳児クラス)を終了し、進級式が行われた日の夕方。

自宅のリビングで食事中に娘が「てんとう虫!」というので見てみると、テーブルの上にちょこんと乗っていました。

「てんとう虫が進級おめでとうって言いに来てくれたんやわー」

そうやって妻が娘に言っていました。

翌日、妻と娘の手で庭に逃がしてあげていました。

ところが数日後、また同じ模様のてんとう虫がリビングの網戸の内側に張りついています。

ブラックボディに赤い斑点が2つという、ちょっと変わったデザインのてんとう虫だったので嫁さんが覚えていました。「この子、この前の子といっしょちゃう?」と。

なんでまたやって来てくれたのかはわかりませんが、まだ娘におめでとうを言い足りなかったのかもしれません。

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てんとう虫は神様だと思うようになったきっかけ。

それは父の退職祝いの旅行先でのちょっとしたエピソードです。

50年勤め上げた会社を退職した父のお祝いをかねて、両親と嫁さん、ぼくの4人(まだ娘は生まれていなかった)で四国に旅行に行きました。

その日の夕食のとき。

各自の前に置かれている鍋に火をかけてぐつぐつ煮たってきたとき、父親の鍋からてんとう虫が出てきたんです! 熱くて逃げてきたんでしょう(笑)

そのとき、中学校を卒業した翌日から半世紀にわたり、同じ会社で働き尽くした父に「おつかれさん」と言いに来たんだと、内心思ったわけです。

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てんとう虫に限らず、神様はときどき、虫などの生き物に姿を変えて様子を見にこられるらしいです。信じるか信じないかは、あなた次第(笑)。宗教うんぬんではなく、ぼくはけっこう信じています。

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取材中に地震警報音。そのとき社長さんは……

ブワッ、ブワッ、ブワッ、ブワッ――

地震の警報音がけたたましく鳴り響いてその場が凍りつく。

次第にビルが左右にゆったりと揺れ始め、徐々に揺れ幅が大きくなっていく。

ぼくも含めた取材班は関西在住で地震警報音に慣れていない。場がざわめくなか、インタビュイーの社長さんは何事もないようにすっと席を立ち、災害用ヘルメットを手に取って「これをかぶってください」と女性取材班の前にそっと置いた。

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4月1日午前11時40分ごろ、三重県南東沖でマグニチュード6.1の地震がありました。取材場所の大阪市は震度2でしたが、オフィスビルの20階にいたので横揺れがけっこう大きくて動揺しました。

そのなかでも社長さんの対応はとても冷静で、話を聞くと阪神淡路大震災を経験され、東日本大震災時には東京オフィスで被災されたとのこと。

東日本大震災当日は、阪神淡路大震災時の経験を活かして地震直後にスタッフをコンビニに走らせて必要物資を購入し、その日は帰宅を希望する従業員以外の全員でオフィスに泊まったそうです。

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その会社では、社長さん自身の経験を活かしてBCP(業務継続計画)に積極的に取り組まれています。オフィスのすべてのデスクに従業員の人数分のヘルメットがかけられているほか、水や食料も備蓄されていました。

ただし、かたちだけの災害対策は「そのとき」に指示系統が混乱し、十分に機能しないかもしれません。

企業トップの冷静さが災害対策に不可欠なのではと、取材時の社長さんの対応を見て思ったのでした。

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インタビューした人の名刺を前に置いて原稿を書く理由

インタビュー原稿を書く際に必ずやっていることがあります。

それは、インタビューした人の名刺を目線の先に置くこと。

目に入る場所に名刺を置いてその人の存在を感じながらだと、それはそれはいい原稿が書ける、かどうかは分かりませんが、いつの頃からかジンクスのようになってしまいました。

名刺があると単純に便利、という理由もあったりします。たとえば肩書や住所を確認したいとき、サッと名刺を手に取り、パッと確認し、キュッと原稿に反映できます。執筆の手を止めて調べるという煩わしいひと手間が省略されて気分も良いです。

でもまあ、なんというか、名刺を前にして書くと気が引き締まるというか、手を抜けないというか、心を込めて書く安心感を得られるというか、誠意を尽くして仕事ができるような気がしているのも事実。

たぶん、自分が弱いんでしょう。そうでもしないと「よし書くぞ」と自分を鼓舞できないというか。強い人はそんなことをしなくてもしっかりと原稿に向き合えるんでしょうね。

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たいせつなことに気づかない習慣のこわさ

先日、ある場所に出張で訪れました。

現地の空港で入ったレストランで感じた率直な感想。

店員さんがみんな無愛想、というか魚の死んだような目をしている。

不愉快ではなく、残念な気持ち。

たぶん家に帰って家族と過ごす時間、恋人と過ごす時間はふつうのはず。でもレストランで働いているときは目から生気が失われている。

習慣ってこわいなーっと思いました。

その人たちも、プライベートで食事に行って店員さんがみんな無愛想だったら違和感を持つはず。でも自分がそうなっているのは気づかない。

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こういう場面に遭遇すると、いつも自分に置き換えて考えてしまいます。自分は気づかないだけで、人を不愉快にさせていないかなって。

田舎に帰省したとき、「なんでこんなにやる気ない?」「家庭の夫婦喧嘩を持ち込んでいる?」と思わずにはいられないような店員さんがどうも多いように、残念ながら感じてしまいました。

田舎という人の目に触れにくい場所に住んでいることで、知らず知らず、自分もそうなってしまうのがこわいので、人の振り見て我が振り……というのは以前より意識するようになりました。

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魚の目をしている店員さんもいい人のはず。

ぼくが面白い人間なら、帰り際にジョークでも飛ばして笑わせることができるのかもしれません。それができないぼくにできることは、出されたご飯をちゃんと完食することだとなぜか思い、その空港のレストランでちゃんぽんの汁までぜんぶ飲んだのでした。ちゃんちゃん。

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「はかなさ」の奥にあるもの

「桜ってなんできれいなんやろ」

嫁さんとそんな話になりました。

「そら、はかないからやろ」

「なんではかない?」

「そら、すぐ散ってまうからやろ」

「でもすぐ散る花ってほかにもあるよね」

「せやなあ……」

ここでふたり、立ち止まりました。

立ち止まり、考え、

「桜にはたくさんの思い出が付着しているからとちがうやろか」

というような漠然とした結論に至りました。

4月は出会いと別れ、期待と不安、入り混じった季節……なんてありきたりなことはいいません。

みなそれぞれ桜に思い出がある。

いや、桜を見るとなんとなく立ち上がってくる感情がある。

その思い出、感情にもう少しひたりたいのに、願いむなしくすぐ散っていくのが、なんとなく寂しいのかも、と思ったりして。

思い出がはかなさを生み出しているのなら、年齢を重ねるほどに桜は美しくなっていく。

年をとるのもいいもんだ。

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日本人こそ「法螺に手足を。」

故・桂米朝師匠の落語が好きで車でたまに聴いています。

なかでもお気に入りは「天狗裁き」。

妻が旦那の(見てもしない)夢を聞き出そうとして夫婦喧嘩に発展し、その喧嘩の仲裁に入ったひとも次々その旦那に夢を聞かせろと脅かし、最終的に天狗が旦那を裁こうとしてしまうまでの顛末をそれはそれは面白おかしく語り上げます。車なので音声のみで聴いていますが、登場人物の表情までもが浮かんできそうなほどの迫真の語りです。

その米朝師匠の天狗裁き。本題に入る前の枕で、江戸時代の小噺が紹介されています。要約すると次のとおり。

夢を見た。どんな夢? なすびの夢を見た。それは大きななすびやった。どれくらいの大きさや? この家ぐらいあったんか? そんなもんやない。そやなあ、ものにたとえたら「暗闇にへた付けたような……」

暗闇という無限のサイズ感を利用したたとえ噺で、聞いた瞬間に錯覚を覚えるような独特の広がりがなんか斬新です。本題とはちがいますが、毎回聴き入ってしまう好きな箇所です。

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きょうも仕事終わりに車で帰宅中、天狗裁きのなすびの噺の箇所を聴いていたとき、糸井重里さんの次のコピーをふと連想しました。

夢に手足を。

夢が自分で勝手に歩いていくイメージが浮かんできて面白いです。夢となすび、無限のサイズ感という点でなんとなく共通点があるといえなくもない(?)と思ったり。広告のキャッチコピーは好きじゃないけど、やっぱり超一流のひとが考えることばは違います。

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きょうはエイプリルフール。

各社ホームページで趣向を凝らした〝嘘〟をついていて、何社かの遊び心を楽しみました(たとえばタカラトミーとか)。嘘も方便というように、場合によってはその嘘が人の気持ちを和ませたりすることもあるんですね。

嘘まではいかなくとも、ときに法螺は必要といわれます。

ぼくもそうですが、日本人は法螺を吹くのが苦手みたいです。日本人は10できることでも7しかできないと謙遜する一方、外国人は7しかできなくても12できると大風呂敷を広げる、みたいな。

ぼくも含めた日本人、法螺に手足をくっつけるくらいがちょうどいいかもしれません。自分の法螺が勝手に歩いていって収拾がつかなくなり、それをやらざるを得ない状況になって努力し、振り返ってみるとそれがきっかけで成長していました、みたいな。

……というようなことを、天狗裁きから連想した4月1日でした。

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