【活動記⑩】「君は何で田舎にこだわるんや?」

前回の記事はこちら→『【活動記⑨】将来的に地元にUターンすることを見越して神戸の会社に就職

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広告制作プロダクションを退職して神戸の会社の面接を受けたとき、社長さんに自分のライフプランを話しました。

「将来は田舎に帰り、フリーランスのライターとしてやっていきます」

そうやって入社面接で堂々と打ち明ける応募者もどうかと思うけれど、それを聞いた社長さんはぼくの発言を否定するのではなく認めてくださいました。

そのうえで、

「何でそこまで田舎にこだわるんや?」

と30分ほど質問攻めにあいました。

高校時代にアメリカのSOHOスタイルの働き方を知ってそれを目指そうと決めたこと、将来は田舎に帰って仕事をするためにライターになったこと……などなど、このブログのカテゴリ(田舎ライター活動記)で書いてきたようなことをつらつら説明したのですが、

「でも男やったら田舎に引っこまず、仕事で大成したいと思わへんのか」
「田舎にこだわらんでも君のしたい仕事はいくらでもできるんとちがうんか」

となかば詰問状態に(笑)

たじたじになりながらも返答していくなか、

(たしかによく考えるとそこまで田舎にこだわる必要もないか……)

とは、思いませんでした。

まあ、最終的には、生み育ててくれた両親の近くに住み働きたいということなのかもしれませんが、「自分なりのビジョンを持とう」という、自分自身もよくわかっていない深層心理の選択にしたがって信念が形成されてきたのかもしれません。

自分で自覚できている「意識」なんてたかだか5%、残りの95%は「無意識」に支配されているといいます。95%は深海のように奥深い潜在意識の領域なので、本人ですらその真意が推し量れないこともたくさんあるのでしょう。でも結果として、自分が望む人生を忠実に生きているということになるのですが。

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ともあれ、入社面接で「将来はフリーになる」、つまり「いずれ会社を辞めます」と宣言しているような人間を採用していただいてほんとうに感謝しています。

その神戸の会社で2年弱働いて多くの経験を積ませていただいたのち、2008年、30歳のときにフリーランスとして独立して現在に至っています。

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【活動記⑨】将来的に地元にUターンすることを見越して神戸の会社に就職

前回の記事はこちら→『【活動記⑧】ライターにつながる道を模索して印刷会社に入社。ところが……

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大学卒業後に入った印刷会社を退職後、ぼくはどうしたか。中島らも師匠の経歴を思い出し、コピーライターの学校に通うことになります。師匠は印刷会社で働きながら宣伝会議のコピーライター養成講座に通っていたというのを知り、ならばということで自分も同じ門をたたいたのです。

こう書くとまったく主体性のかけらもありませんが、実際に当時のぼくには主体性のかけらもありませんでした。それでもライターになるという目標だけは見失わずに過ごせたのは、将来ビジョンだけはしっかり描いていたから、かもしれません。

退職後と書きましたが、実際には印刷会社を辞める前からコピーライター養成講座に通わせてもらいました。講座の場所は、大阪本町の靭公園の横のビル。少し早めについた日は靭公園で時間を潰して……このころがいちばん辛かったですね。

陸上を辞めて社会に出たものの、仕事はうまくいかないし、ライターになれるかどうかもわからない。陸上競技は目標を持ち、その目標に向けて努力することができた。でもライターという目標の場合、努力のしかたがわからなかった。あるいは努力をしたつもりでも、まったく方向違いかもしれない。それがわからない……。

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つかみどころのない毎日に漠然とした不安を覚え、それでもなんとか講座は修了。印刷会社は受講中に退職し、パチンコ屋で派遣で働きながら口を糊する日々。

その後は東南アジアを放浪したりもしながら(笑)、ようやく『「どうやってライターになったんですか?」』で書いたように大阪の広告制作プロダクションに拾ってもらいライター生活がスタートすることになります。

広告制作プロダクションでは4年弱働き、コピーの基本を厳しく叩き込まれました。これは自信を持って言えることですが、仮にコピーライターが1000人いたとすると、999人目にコピーが下手くそといえるほどコピーが書けませんでした。指導してくださった先輩や社長は苦労されたはずです。それでもさじを投げることなく、ねばり強く指導していただいたからこそ、いまの自分があります。大変感謝しています。

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広告制作プロダクションを退職後、出版社を傘下に持つ神戸の会社に就職。主に書籍の編集やライターの仕事をするようになりました。将来的に地元にUターンすることを見越して兵庫の会社を探していたこと、また面接時に社長さんがぼくの将来ビジョンを認めてくださったことが入社の決め手となりました。

次の記事はこちら→『【活動記⑩】「君は何で田舎にこだわるんや?」

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【活動記⑧】ライターにつながる道を模索して印刷会社に入社。ところが……

前回の記事はこちら→『【活動記⑦】中島らも師匠に影響を受けてライターを志す

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「どうやってライターになったらいいんやろか?」

大学時代に就活をした際、ライターのなり方がわからずに広告代理店の面接を受けようとしたものの、すでに代理店の採用活動は終了済み。

次にぼくが目をつけたのは印刷会社でした。

当時、心酔していた中島らも師匠が印刷会社から社会人人生をスタートされていたからです。

「なんで印刷会社なんやろ?」

そう思いながらも資料を調べていると、クリエイティブ部門を持つ印刷会社が多いことに気づきます。そこで数社の会社説明会に参加、京都の印刷会社から内定をいただきました。

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その印刷会社は社員数がたしか700名(当時)ほどで、業界では中堅に位置する会社でした。わりと大きなクリエイティブ部門を持ち、デザイナーやコピーライターも在籍していたのです。

ですが新卒で入ったぼくの所属はクリエイティブ部門ではなく、本社の営業部隊。クリエイティブ関係の採用は中途が多かったんじゃないでしょうか。とにかく師匠と同じ経歴の第一歩を踏み出せたことに胸をなでおろし、社会人としての歩みを始めることになります。

ところが、経緯は省きますが新卒で入ったその印刷会社を2年弱で退職することになりました。理由は、社会と組織に適合できなかった、陸上以外は何をやってもダメだった、ということに尽きます。

当時のぼくは社会人として生きていくにはあまりにも未熟で、自分を保つことができなかった。入社3年以内に辞める新卒が社会問題になって久しいですが、ぼくはその走りといってもいいかもしれません。

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会社に伝えた退職理由は「ライターの道をめざしたい」ということでした。この点において自分の信念はブレていないわけですが、投資をして新卒人材を採用した会社側に立ってみれば「なにあほなこと言うとんねん」ということになります。

にもかかわらず。

にもかかわらずですよ、上司は「高橋君、ライターになりたいんやったら、うちの会社のクリエイティブ部門に異動してコピーライターになったらどうだろう。話をつけてあげるよ」とまで言ってくださった。

にもかかわらず。

にもかかわらずですよ、ぼくは一度辞めると伝えてしまった手前、そのあたたかい上司の配慮もお断りして退職したのです。しかも送別会まで開いてもらって……。ほんとうに恥ずかしい限りです。

こうして振り出しに戻ってしまったぼくは次、どうしたか。

またまた、中島らも師匠と同じ経歴を辿ることになります。

次の記事はこちら→『【活動記⑨】将来的に地元にUターンすることを見越して神戸の会社に就職

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【活動記⑦】中島らも師匠に影響を受けてライターを志す

前回の記事はこちら→『【活動記⑥】高校生時代に決めたビジョンが進路選択の決め手に

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高校時代に決めたビジョンに向けて選んだ道。それは「ライターを目指す」ということでした。

田舎の自宅で家族とともに好きな仕事をして暮らすといっても、果たして田舎に自分が打ち込める仕事なんてあるんだろうか。

そう考えたとき、別に企業に勤めるわけではないんだから、「自分が興味のあることを仕事にしたらいいやん」とごく自然に思ったんです。

じゃあ興味のあることは何かと思いめぐらせたとき、ふと浮かんだのが「ライター」という職業だったのでした。

なぜライターだったのかというと理由は単純で、当時、中島らも師匠に心酔していたから(笑)

師匠の小説は叙情的でときに苛烈で、切なくて、美しくて、いい意味で衒学的で破滅的で……ほんと好きやったな~(『今夜、すベてのバーで (講談社文庫)』とかね)。その師匠は小説家になる前に広告のコピーライターをしていたのを知っていたので、「よしおれもコピーライターや!」と大学生なりに「なりたい自分」を決めたわけです。

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ライターを選んだ現実的な理由もあります。

就活をした1999年はウィンドウズが登場してインターネットが普及し始めていた時代でした。就職活動中はパソコンは持っていませんでしたが、「ライターになれば仕事道具はパソコンになる。パソコンがあれば田舎でも仕事ができるじゃないか」という、単純すぎる思考回路でライターという職業と将来ビジョンを結びつけたのでした。

ところが、ここでハタと立ち止まります。

「どうやってライターになったらいいんやろか?」

これが意外にわからないんです。

インターネットはまだまだ黎明期でネットで調べ物をするという手段は一般化していません。当時はハガキを使って企業の資料請求をしていた時代ですから。

そこで大学の入試課に行って就活本で調べたところ、どうやらコピーライターは広告代理店にいるらしいということがわかった。

「よし広告代理店だ!」

ということで資料請求をしようとしたものの、主だった代理店の企業説明会や採用面接はすでに終了しているという悲しい現実が……。

出鼻をくじかれ、自分のキャリアプランは早くもとん挫したかに思ったけれど、そこでまた中島らも師匠が頭に浮かんできました。

「たしか師匠は社会人一発目、印刷会社に勤めていたな」と――。

次回の記事はこちら→『【活動記⑧】ライターにつながる道を模索して印刷会社に入社。ところが……

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【活動記⑥】高校生時代に決めたビジョンが進路選択の決め手に

前回の記事はこちら→『【活動記⑤】そもそもなぜ将来は田舎に帰ろうと思ったのか?

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将来は田舎の自宅で家族とともに好きな仕事をして暮らす――。

高校生のときに偶然見たテレビ番組をきっかけにこう思ったぼくは、大学以降、このビジョンに向かって人生を歩んでいくことになります。

ひとつ目の岐路は大学時代。卒業後の進路を考えたときでした。

中高大と陸上競技に打ち込んできたぼくは、高校では三段跳びという種目でインターハイで決勝進出、大学も同様に三段跳びでインカレや日本選手権、国体に出場するなど、それなりに成績を出していました。

さらにいろいろな経緯は省きますが、「三段跳びをもう少し本格的に練習すれば日本のトップ選手あたりまで行けるのではないか」という自信をひそかに抱いていました。三段跳び選手として本格的に練習をしたのは大学3回生からの1年間だけだったからです。

だから大学4回生の時点では、卒業後も社会人選手として陸上を続ける道を探ろうと思った時期もありました。

しかし最終的にその選択はせず、企業に就職する道を選びました。

なぜか。

将来は田舎の自宅で家族とともに好きな仕事をして暮らす――。

というビジョンがあったからです。

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大学卒業後も陸上を続ける道を進んだ場合、現役選手として活躍できるあいだはいいかもしれません。ですが陸上選手としてのピークは20代で、30代になると引退を迎えることになる。

仮に35歳で現役を引退した場合、そこから第2のキャリアをスタートさせなければなりません。あるいは社会人チームを持つ会社に勤めた場合、引退後はその会社の社員として働くことになります。

いずれのパターンも好きな仕事を始めるのは難しくなります。

社会人チームを持つ会社に入る場合は陸上を続けるのが目的なので、その会社の仕事に魅力を感じたわけではないはずです。引退後は一般の社員として好きでもない仕事を続けるなんて面白くないと思ったし、そもそも将来は田舎の自宅で……というビジョンとはかけ離れた人生を送ることになってしまう。

大学時代にそうやって考えた結果、陸上競技は大学で引退し、卒業後は就職して自分の興味のある仕事をしようと決意したのです。

そしてその決意のベースとなったのが、

将来は田舎の自宅で家族とともに好きな仕事をして暮らす――。

という高校生のときに決めたビジョンだったのでした。

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【活動記⑤】そもそもなぜ将来は田舎に帰ろうと思ったのか?

前回の記事はこちら→『(活動記④)田舎暮らしはバイオリズムが整う?

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阪急電車で大阪の梅田駅まで15分。兵庫県尼崎市という、ライター活動を続けるうえではたいへん恵まれた場所に住んでいたのに、なぜ田舎の兵庫県加東市にUターンしたのか。

きっかけは高校時代にさかのぼります。

その日はたしか土曜日だったように思います。

土曜日の授業は午前中で終わり、午後は部活動(陸上部)の練習に明け暮れていました。

部活動は夕方に終了し、その後は自転車で15分ほどかけて自宅に帰ります。それから晩御飯までのあいだ、おやつを食べながらテレビをぼけーっと眺めるのが習慣になっていました。

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その土曜日の帰宅後も、部活動でカラダを酷使した心地よい疲労感に包まれながらテレビを見るともなく見ていました。

するとある光景が目に飛び込んできたんです。

当時、アメリカで流行していたワークスタイルを取り上げた番組で、あるアメリカ人一家の日常が紹介されていました。

緑あふれる郊外の自宅で仕事をする父親の姿。まるでディズニーの英語システム(わかる人にはわかるはず、笑)に登場するようなダンディーなパパが、おしゃれな部屋でカッコよく仕事をしています。

そのパパと同じ部屋では可愛らしい子どもがはしゃぎ回り、となりのキッチンでは美人のママが料理をつくっていました。

サラリーマン家庭に育ったぼくにとって、父親が自宅で働いている姿はじつに新鮮でした。同時にホワイトカラーの職業でありながら、職住一体の生活が当然のように成り立っている家族の在り方に憧れを抱いたのを覚えています。

そうしたワークスタイルは「SOHO(Small Office/Home Office)」と呼ばれ、当時のアメリカではすでに主流になっていると知りました。

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その番組を観終わったとき、

「おれも将来はこうやって働きたい」

とごく自然に思いました。

その思いは、アメリカ人家族の暮らしの映像とセットで脳裏に刻みこまれ、潜在意識にも強烈にインプットされました。その瞬間、人生とかかわる何らかの遺伝子のスイッチがパチンと音を立てて「オン」に切り替わったはずです。

以来、約20年間。

そのとき目にしたテレビの光景、「おれも将来はこうやって働きたい」という思いを心の片隅に抱きながら、キャリアを積み重ねてきました。

いくら遠くても的(まと)を定めると、矢はそこに向かって飛ぼうとするものです。

ぼくの人生も同じで、

将来は田舎の自宅で家族とともに好きな仕事をして暮らす――。

そんなライフプランを実現する方向に矢が進んでいったのです。

次回の記事はこちら→『【活動記⑥】高校生時代に決めたビジョンが進路選択の決め手に

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(活動記④)田舎暮らしはバイオリズムが整う?

前回の記事はこちら→『【活動記③】兵庫県の市町村で2番目に住みやすい町

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2014年2月に兵庫県加東市にUターンしました。

当時、仕事が立て込んでいて、さらに寒い時期に引っ越しをしたというタイミングも重なって、環境変化でカラダを壊してしまいました。

ですが気温が高くなるにつれて症状はゆっくりと回復。加東市に移住して2年経ったいま、もはや田舎暮らし以外は考えられない! といえるほどこっちの生活に愛着を感じてきました。

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では田舎暮らしが具体的にどういいのか。

前提として、加東市はぼくが生まれ育ち、高校生まで過ごした場所だということ。だからなんというか、細胞レベルで落ち着く感じがあります。

幸い、妻の実家も田舎で都市近郊から離れて暮らす考えを受け入れてくれました。いまの田舎暮らしがあるのは、妻の理解があるからこそです。感謝しています。

高校を卒業した18歳で加東市を離れ、約20年後の37歳のときに戻ってきて、改めて田舎暮らしがいいなと思った点を挙げてみます。

・空気がきれい
・夏の夜は虫の音が美しい(精神的に落ち着く)
・野菜が安くみずみずしく元気で美味しい
・近所の人から野菜をもらえる
・自然の中で子どもを育てられる
・公園が多く子どもを遊ばせる場所が意外に充実している
・田舎の土壌で子どもの心の基礎を築いてあげられる
・渋滞が少ない
・お店の混雑が少ない
・ランニングする場所に困らない
・両親の近くに住んでいるので安心
・仕事部屋からの景色がきれい
・美味しいお店はほんとうに美味しい
・田舎と都市部の往復でバイオリズムが整う

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このなか、最後に挙げた「田舎と都市部の往復でバイオリズムが整う」について軽くふれたいと思います。

原稿書きなどの仕事は田舎の自宅で行い、取材は大阪市内を始めとした都市部で行っています。取材に出るのは平均すると週に2、3回ほど。それ以外は基本的に自宅で仕事です。

こうして田舎と都市部を往復していると、生体リズムが整う気がします。都市部に出て刺激をもらい、田舎に帰り癒されるというか。

宇宙に存在するあらゆるもの、森羅万象は陰陽の二元論で成り立つというのが東洋の伝統的な世界観です。

難しいことはわかりませんが、田舎と都市部という対極を行き来するのは、感覚や感性、自律神経といった人間を人間たらしめている深いレベルの均衡が保たれ、陰陽のバランスがとれる気がするのです。

田舎には田舎の良さ、都会には都会の良さがある。

その両方を味わえる現在の生活がなかなか気に入っています。

次回の記事はこちら→『【活動記⑤】そもそもなぜ将来は田舎に帰ろうと思ったのか?

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【活動記③】兵庫県の市町村で2番目に住みやすい町

前回の記事はこちら→『【活動記②】Uターン先は、関西の人でもほとんど知らない片田舎

※2016.6.22速報! 「全都市住みよさランキング(2016年)」(東洋経済新報社)で地元・加東市が兵庫県の市町村で今年も芦屋市に次いで2位にランクイン!

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加東市や北播磨に移住した人の話が聞ける!「オンライン移住フェスタin北播磨」が開催されます!

(日程)
第1弾:2020年10月29日(木)
第2弾:2020年11月27日(金)

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田舎のことを書くと「住みにくそう」と思われるかもしれません。

いやいやそんなことはありませんよ。

じつは、住んでいるぼく自身もびっくりしているデータがあります。

東洋経済新報社が発表している「全都市住みよさランキング(2015年)

この結果を見ると、いまぼくが生活拠点を置いている加東市は、兵庫県の市町村の中で芦屋市に次いで2位にランクインしているんです!(全国では43位、近畿圏内では7位)

住みやすさランキング加東市

「住みよさランキング」の概要は次のとおり。

東洋経済が公的統計をもとに、現状の各市及び東京区部が持つ“都市力”を「安心度」「利便度」「快適度」「富裕度」「住居水準充実度」の5つの観点に分類し、採用15 指標について、それぞれ平均値を50とする偏差値を算出、その単純平均を総合評価としてランキングしたもの。

※2016.6.22追記:ランキングの数字の見方を完全に勘違いして書いていました。5つの観点の数字は「順位」なんですね。点数と間違っていました。以降、正しいランキングの見方をベースに内容を書き換えています。

加東市は、兵庫県内でランキング1位の芦屋市、3位の宝塚市と比べて「利便度」と「富裕度」は低い一方、「快適度」と「安心度」で上回っています。なかでも「快適度」が突出しているのがわかります。

ようするに、「利便性」はそんなに高くないけどめっちゃ「快適」なまち、ということ?

各観点の算出指標は次のとおり。

住みやすさランキング指標

「快適度」は人口の増加や新築住宅着工数がランキングの指標になっているように、「転入してくる人が多い」→「住みたい町」→「住みやすい町」を示しているといえますね。つまり加東市は「住みたい町・住みやすい町」として全国12番目に位置している、というと多少大げさでしょうか。

以前住んでいた尼崎市(ランキング外)と現在の加東市の両者で比較してみても、(生まれ育った町という良さも多分に影響していますが)加東市のほうが交通の便をのぞく総合的な住みやすさは上回っていると感じます。

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「住みよさランキング」の順位を見ていると、都市部よりも地方の町が多くランクインしているのが分かります。

その理由はおそらく、公共交通機関の充実度や交通の便といった「アクセス」が指標に含まれていないからだと推測します。(「利便度」はアクセスのことかと思うけれど小売の充実度なんですね)

アクセス面を考慮すると、都市部が軒並みランキング上位を占めてしまいそうです。

それを避けるために、あえて指標からは省いたのかもしれません。

逆にいうと、都市部に住まう最大のメリットはアクセスの良さであり、その利点を横に置けば、ぼく自身が実感しているように「総合的な住みやすさは地方に軍配が上がる」といえるかもしれません。

「住みよさランキング」から見えてきた自分なりの結論です。

次回の記事はこちら→『(活動記④)田舎暮らしはバイオリズムが整う?

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【活動記②】Uターン先は、関西の人でもほとんど知らない片田舎

前回の記事はこちら→『【活動記①】「高橋君、田舎でライターなんて無理やで」

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フリーライター転身後、Uターンを検討していた兵庫県の片田舎。

それは兵庫県加東市です。

大阪市内からだいたい70キロ離れた町で、神戸の人に「加東市って知ってる?」と聞いても「?」という顔をされることも少なくありません。

「加東市って兵庫県のどのあたりですか?」

こんな質問に答えるのは、たとえ関西の人でもけっこう難しかったりします。

加古川の場所がわかる人には、「加古川から内陸部に20キロくらい上がったところ」という説明で何となく「へー」ということになります。

あるいは中国高速道路のインターの位置関係が漠然とわかる人には、「神戸三田をさらに岡山方面に進んだ滝野社インターのあたり」と伝えると、「ゴルフ場がたくさんあるところやね!」と急に声が弾んだりします。

こうした説明が通用するのはもちろん関西の人限定です。

住んでいる場所を出張先で質問されるともはや説明するのはほぼ不可能なので、「兵庫県から来ました」という漠然としたあいさつでその場をやり過ごしています。

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こういうことを書くと田舎を気に入っていないように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。田舎愛についてはこのカテゴリでたっぷりと語っていきましょう。

ではここで何が言いたいのかといえば、Uターン先の加東市は関西の人でもほとんど知らない田舎だということ。

とくに電車(JR加古川線)が不便なんです。

最寄駅は単線で、本数は1時間に1本。しかも電車に乗っても、加古川駅を経由して神戸や大阪に出る必要があります。

単純に時間がかかるうえ、1本乗り過ごすと1時間待ち。だから仕事で使うのは現実的ではありません。

そういう環境にありながら、現在は加東市に移り住んで書籍ライターの仕事を継続しています。加東市にUターンしてからのほうが手がける書籍の数も増えました。

心配していた交通面も不都合はまったくなし。

むしろ尼崎に住んでいたときよりも移動に時間がかかる分、効率的に仕事をする意識が働いて業務効率も上がりました。

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現在の主な活動エリアは大阪市内。フリーに転身した当時と変わりありません。

では片田舎に住みながらどうやってライターの仕事を続けているのか。

その工夫はのちに説明していきますが、キーワードは「車×電車をフル活用して最短距離を進め」です。

この方法で移動の負担が軽減し、夏は涼しく、冬は暖かく、取材先と自宅を快適に往復できるようになりました。

次回の記事はこちら→『【活動記③】兵庫県の市町村で2番目に住みやすい町

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【活動記①】「高橋君、田舎でライターなんて無理やで」

大阪市内を主な活動拠点にフリーライターとして独立し、2年ほど経ったある日のこと。

大阪の編プロの編集者さんに、胸に秘めていた人生プランを打ち明けました。

「近い将来、田舎に帰ってライターを続けようと決めているんです」

ぼくの言葉を聞いた編集者さんは、具体的な移住先も確認せず、間髪入れずにこう言い放ちました。

「高橋君、そら無理やで」

仕事関係者の中で移住計画を伝えたのは、その人が初めてだったと思います。なぜそうした話になったのかは覚えていませんが、見事に一刀両断されてしまいました。

でもぼくはそれであきらめるどころか、

(こんな時代遅れの人には今後、田舎暮らしの話はしないでおこう)

と開き直るとともに、自分のライフプランを実現させることに対して俄然、やる気が芽生えたのでした。

都市部の若い方の地方移住がいまほど話題になるより少し前、2010年頃の話です。

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当時、ぼくは兵庫県尼崎市に住んでいました。

尼崎市は兵庫県ですが、電話番号の市外局番は大阪市と同じ「06」。

「尼崎は大阪市の一部」

そう誤解している人はいないでしょうが、尼崎市と大阪市は距離的に近いことはたしかです。

前述の編集者さんが籍を置く編プロは主にタウン誌を手がけていて、ぼくが依頼を受けていたのは大阪市内で1日に何件も取材するような仕事でした。

「大阪市内を走り回らないといけないのに、田舎に引っこんで仕事ができるわけがないやろ」

暗にそう諭していたのでしょう。

たしかにそのとおりですが、都市部に拠点を置かないとライターの仕事は成り立たない、そんな前提をもとにした断定が先に来るところに、「時代遅れ」という印象を持ってしまったのでした。

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ぼくは20代半ばからアジアをバックパッカーで旅していたような人間で、出版の仕事を始めてからもアジア各地に出張したり取材したりする機会がありました。

タイやベトナムなんて飛行機に数時間乗れば着いてしまいます。いまや日本も海外もネット環境が整っているので、パソコンがあれば仕事の場所を選びません。

だから日本のどこに住むかという小さな枠ではなく、日本も含めたアジア全体でものを見る意識がありました。

そんなぼくにとって、日本の田舎に移り住むことくらい、たいした問題ではなかったのです。

にもかかわらず、田舎=ライターの仕事は無理、と短絡的に結びつけてしまう発想は理解できませんでした。

次回の記事はこちら→『【活動記②】Uターン先は、関西の人でもほとんど知らない片田舎

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