大阪市内を主な活動拠点にフリーライターとして独立し、2年ほど経ったある日のこと。
大阪の編プロの編集者さんに、胸に秘めていた人生プランを打ち明けました。
「近い将来、田舎に帰ってライターを続けようと決めているんです」
ぼくの言葉を聞いた編集者さんは、具体的な移住先も確認せず、間髪入れずにこう言い放ちました。
「高橋君、そら無理やで」
仕事関係者の中で移住計画を伝えたのは、その人が初めてだったと思います。なぜそうした話になったのかは覚えていませんが、見事に一刀両断されてしまいました。
でもぼくはそれであきらめるどころか、
(こんな時代遅れの人には今後、田舎暮らしの話はしないでおこう)
と開き直るとともに、自分のライフプランを実現させることに対して俄然、やる気が芽生えたのでした。
都市部の若い方の地方移住がいまほど話題になるより少し前、2010年頃の話です。
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当時、ぼくは兵庫県尼崎市に住んでいました。
尼崎市は兵庫県ですが、電話番号の市外局番は大阪市と同じ「06」。
「尼崎は大阪市の一部」
そう誤解している人はいないでしょうが、尼崎市と大阪市は距離的に近いことはたしかです。
前述の編集者さんが籍を置く編プロは主にタウン誌を手がけていて、ぼくが依頼を受けていたのは大阪市内で1日に何件も取材するような仕事でした。
「大阪市内を走り回らないといけないのに、田舎に引っこんで仕事ができるわけがないやろ」
暗にそう諭していたのでしょう。
たしかにそのとおりですが、都市部に拠点を置かないとライターの仕事は成り立たない、そんな前提をもとにした断定が先に来るところに、「時代遅れ」という印象を持ってしまったのでした。
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ぼくは20代半ばからアジアをバックパッカーで旅していたような人間で、出版の仕事を始めてからもアジア各地に出張したり取材したりする機会がありました。
タイやベトナムなんて飛行機に数時間乗れば着いてしまいます。いまや日本も海外もネット環境が整っているので、パソコンがあれば仕事の場所を選びません。
だから日本のどこに住むかという小さな枠ではなく、日本も含めたアジア全体でものを見る意識がありました。
そんなぼくにとって、日本の田舎に移り住むことくらい、たいした問題ではなかったのです。
にもかかわらず、田舎=ライターの仕事は無理、と短絡的に結びつけてしまう発想は理解できませんでした。
次回の記事はこちら→『【活動記②】Uターン先は、関西の人でもほとんど知らない片田舎』