家に風を通すように、仕事に風を通す

昨夜、風呂あがりのストレッチ中にテレビをつけると、アグネス・チャンが1年間放置していた旧自宅を見に行く企画をやっていました。

邸宅のような立派な家でしたが、外壁が薄気味悪く変色しているだけでなく、家の中にはカビが発生し、茶色い雨漏りのシミがクロスに垂れているという、ちょっとしたホラーな感じに仕上がっていました。

1年って長いようですが、でもたった1年なんですね。1年住んでいないだけで、朽ち果て感が漂ってしまう。

住宅の専門家ではないので詳しいことはわかりませんが、「風を入れていないから」じゃないかなあと思いました。

仮に人が住んでいても、風が入っていない家はなんとなくわかりますね。空気がよどみ、何かいそうな雰囲気が漂っている。

だからぼくは、自宅に風をなるべく通します。花粉やPM2.5が入り込む時期もありますが、それでもなるべく家に風をとり込むようにしています。まあ、たいそうに書かなくても当たり前のことですが……。

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家だけでなく。

仕事に風を通すのも大事な気がします。

うまく言えませんが、どんより湿った気持ちで惰性でやるのではなく、常に感謝の気持ちを「気」として流し、その気の流れに乗って仕事に取り組むというか。こころを動かし、波動を高めて仕事に取り組むというか。

気の流れの良い場所ってなんとなくわかります。むかし、京都と大阪をむすぶ京阪電車「伏見桃山駅」を下車してすぐの伏見大手筋商店街に行った際、「良い気が流れているなあ」と直感したのをふと思い出しました。

そんな気の流れの良い商店街のような人間になりたいし、良い気の流れのなかで仕事に取り組める人間でありたいし、良い気の流れを感じてもらえるような仕事を手がけていきたいなあ、と、アグネス・チャンの自宅を見ながら思ったのでした。

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体調不良から抜け出すためにはじめた「半身浴」。副次的な効果も……

きのう、風呂に関係すること(『アイデアが閃く三つの場所。ぼくの場合は……』)を書いたので、それの続きで。

実家のある兵庫県加東市に帰省した半年後くらいから毎日、風呂で半身浴を続けています。

目的は、汗をかくため。

詳細は省きますが、25歳のころからずーっと体調不良に悩まされていました。病院で検査をしても「問題なし」との結果が出るので、対処法がわからず。わらにもすがる一心で、公には書けないような荒療治(?)に父親の協力を得て取り組み、とにかく痛いので歯を食いしばって継続し、いちばんひどい状態はなんとか脱しました。

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それでも完治するまでには至らず。

いろいろ考えた結果、自分なりに汗をかく必要性を感じ、その手段として半身浴を思いついたわけです。

なぜ汗なのか。

小さいころから運動し、汗をかくことで体内の老廃物を排出するカラダになっていると思ったからです。それが大学卒業後に運動をやめ、汗をかかなくなったことで老廃物が蓄積し、体調不良を引き起こしたのではと。フリーランスに転向した30歳のときに陸上競技を再開したのには、運動によって健康を取り戻すという目的もありました。

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それで半身浴。

結果として大正解です。半身浴をはじめて1年半ほどになりますが、体調不良のデフレスパイラルから完全に抜け出した実感ありです。

半身浴はだいたい30分。はじめた当初は汗をかきにくかったのですが、いまではサウナに入ったようにかんたんに、即、大量の汗がふきだしてきます。通常でも1リットル、多い日で2リットルくらいの汗をかいています。

風呂あがりはカラダすっきり、血液がきれいになって循環しているというか、体内が澄み渡っているような感じがあります。あと1日に1回、芯からカラダをあたためることで自律神経が整い、風邪もひきにくくなっています。

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副次的な効果も。

半身浴ではビールを1本持ち込んで、仕事とは関係ない小説を読んでいます。1日30分、ゆっくりと読書を楽しんでいますが、毎日続けていると意外に読めるんですね。通算すると歴史小説を中心に数十冊、シリーズものの歴史マンガも一作だけですが読破しました。

湯につかりながら小説の世界にひたる――これがオンからオフへのいい切り替えになります。交感神経から副交感神経へとやわらかく切り替わっていく感じがあります。半身浴を終えて体を洗っているとき、いいアイデアがおりてくることが多いです。

心身が健康になって本も読めて、着想まで得られる。半身浴、おすすめです。

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アイデアが閃く三つの場所。ぼくの場合は……

中国の詩人で歐陽脩(おうようしゅう)という人は、アイデアが閃く場所として「馬上(ばじょう)」「枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)」の三つをあげました。馬上は、現在でいえば車や電車などで移動中に置き換えられますね。枕上は文字どおり枕元、厠上はトイレです。

この三つを三上(さんじょう)といい、リラックスした環境に身を置いた際に心が開放されてアイデアが舞い降りてくる、そんな感じの意味のようです。

コピーライター時代の大先輩はコピーや企画を考えている最中、行き詰ると「トイレ行ってくるわ」と席を立ち、戻ってきたときには「こんなんどうやろか」と極上のコピーや企画ができ上がっているような人でした。そのたびに驚いていたのを思い出します。

閃きってただ待っているだけで訪れるものではなくて、情報を頭に詰め込んで練るに練ったあげく、「もう無理」とパンク寸前になっていったんその思考から離れたのち、ふとリラックスした瞬間におりてくるように思います。神様のご褒美のように。まさに『アイデアのつくり方』ですね。

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ぼくの場合の〝三上〟は「風呂」です。

たとえば原稿がどうしても書けないとき、いったん打ち切って風呂に入ると、冒頭の一文からの展開が流れるように思い浮かぶことがけっこうあります。まるでバックラッシュして複雑に絡まったベイトリールの糸がスルスルとほどけていくように。

おそらくこんがらがった頭が風呂で解きほぐされて情報が整理され、本筋が浮かび上がってくるのだと思います。そうやってつかんだ本筋はシンプルだったりします。

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問題は、風呂の中ではメモれないこと。だから思い浮かんだあとは牛のように何度も反芻し、反芻しては口に出してつぶやき、つぶやいては内容を咀嚼して忘れないでおこうと努力します。

かんたんなひと言だったら覚えやすいけれど、原稿の展開だったりすると忘れかねません。風呂から飛び出してメモ用紙に殴り書きし、安心して風呂に入り直す、そんな経験数知れず。

風呂でもメモできるようにしようかと考えたこともあるけれど、メモできる環境になったとたん、風呂が仕事場になってしまうというか、構えてしまって閃きがおりてこなくなるような気がするんですね。

だから風呂は風呂のままでいいんです。ただの風呂だから三上なんです。

さあ、風呂入ろ~

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原稿の〝第一ボタン〟をいかに見つけるか

インタビュー原稿を書くとき、いちばん意識するのが冒頭の一文です。冒頭の入りがうまくいけば最後まで流れるように書けますが、入りをまちがえると最後までぎこちなさがつきまとうからです。

いつも思うのは、冒頭の一文はシャツの第一ボタンと同じだということ。(なんかうまく書けないな……)というときは、原因として冒頭の一文を真っ先に疑います。第一ボタンをかけちがえると、最後までずれたままになるからです。

滑り出しが本筋とずれていると、そのずれを修正するのが目的の展開になってしまいかねません。まるで出口のない迷宮から抜け出すゲームをしている状態。意地でも脱出しようと躍起になり、でも出口はないのでやがて疲れ果ててゲームオーバー、みたいなエンディングを迎えることになります。

原稿の展開は、常に本筋に沿っていなければなりません。樹木と同じように太い幹がずどんと通り、その幹から枝葉が伸びていくように関連する内容が紐付られていく。そんな原稿は読み手にとっては理解しやすく、書き手にとっては書きやすい、そう考えています。

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では原稿の本筋をとらえた冒頭の一文をどう見つけるか。

ケースバイケースですが、ぼくの場合、取材時に心に響いたことばやエピソードを足がかりにするケースが多いような気がします。奇をてらうことなく、純粋に感じたままに書き出すことで、その後の展開が次々頭に浮かんでくる、とまあ、そんな具合です。毎回そんな感じで書けたらベストなんだけど、実際には懊悩呻吟することもすくなくありません。

ただし、取材時の感動そのままに書き出した結果、ものすごくむずかしい展開になるケースもあります。理由は、おそらく取材テーマとは直接関係のない話で感じ入り、その余韻が抜けきれずに軸を見失ってしまっているから。

原稿の本筋につながる端緒をうまくつかみとるためにも、やはり取材テーマやターゲットなどをしっかり理解したうえでインタビューにのぞむ必要があると、いまこれを書きながら改めて思います。原稿の書き出しは、すでに取材時に始まっている――そういえるかもしれません。

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実家を出て暮らしている人は「帰る」と「行く」の使い分けをたいせつに

司馬遼太郎の『国盗り物語〈1〉斎藤道三〈前編〉 (新潮文庫)』を読んでいてこんな場面に遭遇しました。

美濃へ来て、七か月たつ。
大永二年の春、西村勘九郎こと庄九郎は、鷺山殿へ伺候(しこう)し、頼芸に、懇願した。
「財産などの整理もあり、いちど京に帰りたいと存じまする」
「帰りたい?」
頼芸は、いい顔をしない。
「勘九郎。帰る、という言葉がおだやかではない。そのほうの本貫は美濃ではないか。まだ、美濃に腰をおろすつもりにはなってくれぬのか」
「いや、これは不覚でござりました。京へのぼる、と申さねばなりませぬ」 P275

西村勘九郎こと庄九郎、ことのちの斎藤道三は京都の油屋を継いだのち、国盗りの意を秘めて美濃(岐阜)に単身入り、守護職の弟・頼芸(鷺山殿)に認められて美濃の名族・西村屋を継承することになります。

西村屋を継いだことで庄九郎(道三)は美濃の人間になったのだから、「京へ帰る」ではなく、「京へのぼる」と口のするのが正道だろう、これが庄九郎に期待を寄せる頼芸の言い分。

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この場面を読んでいてふと思い出しました。

ぼくは高校を卒業する18歳まで実家の兵庫県加東市で暮らし、高校卒業後は大阪府枚方市で10年、兵庫県尼崎市で8年過ごしたのち、36歳のときに実家にUターンしました。

実家を離れていたあるとき、子どもの頃からお世話になっている叔母さんから言われて強く印象に残ったことばがあります。

「大阪に〝帰る〟んとちがうで、〝行く〟んやで。帰るというのは、ここ(実家)に帰ってくるときに使うことばやから」

実家を出て月日が経つほどに、叔母さんから言われたこのひと言が心にしみ、「帰る」と「行く」を意識的に使い分けていたのを思い出します。その感慨が、国盗り物語の一節でよみがえったのでした。

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「帰る」と「行く」は、自分の所在を決定づける、とてもとても大切な使い分けなのに、叔母さんに言われるまで気づきませんでした。使い方を間違えば、相手に寂しい思いをさせてしまう可能性すらある、と学びました。

これは一例ですが、自分の立場や立ち位置によって求められることばが違ってくるケースはたくさんあります。敬語はその最たる例ですね。司馬遼太郎の世界にひたりながら、相手を慮ったことばの使い方、たいせつにしたいなあとあらためて思ったのでした。

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播州弁の汚さは日本一!?

先日、姉が娘(ぼくの姪っ子)を連れて実家に帰省していて、両親を含めて家族で食事に行くことになりました。といってもぼくは仕事で行けなかったのですが、嫁さんから面白い話を聞いたので少し。

食事の席で、おかんが父親にこう言ったそうです。

「お父さん、わたしのうどん、食べてくれへん?」

これに対して父親はどう返したか。

「なんでどい」

「なんでどいって、お父さん、もう……」

このやりとりを見ていた嫁さんは内心笑えたそうです。

なんでどい……笑。

これは生粋の播州弁で、ふつうの表現にすると

「なんで?」

という程度の意味です。

そのいたってふつうの言葉に

「どい」

がついてしまうから様子がちがってきてしまうんですね。

播州弁とは文字どおり播州(播磨)地域に伝わる方言で、ぼくが住んでいる加東市(北播磨)もばりばり播州弁の地域です。嫁さんは但馬の人なので、播州弁の話し方は怒っているみたいでこわい、と常々言っています。

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大阪弁で「お前なんやねん」を播州弁に変換すると

「お前なんどいや」

になります。

極めつけはやっぱりこの方言。

「だぼ」

これは大阪弁でいう「アホ」の最上級のような表現で、

「お前だぼこ」

というような感じで使用します。

文字にすると弱そうというか、間抜けな印象になりますが、

発音するとドスのきいたコワイ声音になります。

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冒頭の母と父のやりとり。

まず前提がおかしいですね。

「お父さん、わたしのうどん、食べてくれへん?」と明確に聞いているんだから、「イエス」or「ノー」で答えられる話です。

それを「なんでどい(なんで?)」と質問を質問で返してしまっている時点で会話が成立していないおかしさがあるうえ、そのおかしさを播州弁のおそろしい声音で変な方向にねじ曲げてしまっている愉快さがあります。

変な方向というのは、母の質問とそれを受けた父の返答の主従が逆転し、見事に「父の勝利」に帰着しまっているという(笑)

ぼくも嫁さんに怒られたときなんかに、「なんでどい」と強気に切り返してみようかなあ(笑)

※ちなみに現在のぼくは「だぼこ」とか「なんでどい」とかは言いません。あしからず。

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脇汗を食い止めてくれる強者はいないか。

ぼくは脇汗を大量にかく。一時期、NHKの有働アナウンサーの脇汗が話題になったが、あんなものは蚊の放屁ほどの威力もない。

緊張を強いられる場面、具体的には取材時の汗の量がひどい。目にも鮮やかなブルーのシャツなんて完全にNG。脇の下付近にシミができるという状況を大きく超え、水浸しレベルの騒ぎになる。シャツだけでなく、その上のジャケットも水浸しだから、色にはこだわり抜く。

シャツはできる限り薄い色、とくに水色系統が良い。ジャケットは濃いグレーが無難。黒だと逆に目立つケースもあるから注意が必要だ。

ブルーやグレー、ピンクのシャツをおしゃれに着こなすビジネスパーソンがうらやましい。そんな爽やかさに憧れてそういう色を買ってみたこともあるけれど、一度着て後悔し、もう二度と着るものか、と脱ぎ捨てた経験数限りなく。

ただし、生地によっては大丈夫なケースもある。口で説明するのは難しいけれど、脇汗が目立たない種類の生地は確実に存在する。シャツでいえば、一例は細かなメッシュタイプの生地。ジャケットでいえば若干毛羽立ったタイプの生地。

数々の失敗を経験しながら生地を見極める目を養ってきたので、いまでは比較的高い確率で汗の目立たないシャツやジャケットをチョイスできるようになった。けっきょく、シャツは白と水色のストライプ、ジャケットはグレー(あるいは夏物は水色も)という、ほとんど変わり映えのないバリエーションになってしまっているけれど……。

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女性用の脇汗パッドをひそかに試してみたこともある。でもあんなものはまやかしに過ぎない。脇汗が吸収されるどころか、ぼくレベルになってくると吸収能力をはるかに凌駕してしまっているから、ためにため込んだ脇汗があるときいっせいに解き放たれて、思いもよらぬ場所まで水浸しになってしまう。

脇汗バットの実体験でいえば、脇汗がどこをどうさ迷ったのかはわからないけれど、なぜか腹のあたりがびしょ濡れになったこともある。脇汗が運河のようにカラダをはいまわり、腹に到達したものと思われる。

脇汗吸収素材のついた男性用のシャツに望みを託したこともある。でも結果は脇汗パッドと大差なし。一度着てそれっきりになった。

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困ったことに、原稿を書いていても脇汗をかく。それも原稿がのってくるほど発汗量が増える。いい原稿が書けると脇も興奮して汗腺が開放されるのだろうか。

このブログを書いているいま、脇汗をかいているかどうか……想像にお任せします。

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文章がスルスルと書けるようになる(かもしれない)ペン・シャープナーとは?

きょうは「書く×走る」の話。

ぼくの場合、自分の影を見ながら走るとリズムがよくなります。自分の影の動きは、当然だけど自分の体の動きとピタリと一致している。だから影の動きを見ながら走ると、体の動きが影の動きに同調しているように錯覚し、次第にリズムが生まれてくるのです。同調しているように錯覚し…というか、実際に同調しているのだけれど。

ややこしい話は抜きにして、影を見ながらだと単純に走りやすい。頭で描いているイメージ上の走りを、影が実演してくれているというか。影の動きにつられて体が動く、というか。いや正確にいえば、自分の体が動いているから、影も動いているのだけれど(説明がヤヤコシイ)。

 影が体の動きをリードしてくれるように、本業のほうでも、自分の筆さばきをリードしてくれる仕掛けはないものか。書けないときほどそう願う。

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ペン・シャープナーという言葉があります。直訳(?)は、「ペン先を鋭くさせるもの」。勝手に要約すると、「リズムよく原稿を書き出すため、前もって読むお気に入りの文章」という感じになるでしょうか。

 「この文章を読めば脳が不思議と研ぎ澄まされて、スルスルとペンが走り出す」――ライターであれば、誰でもひとつやふたつはそんなお気に入りの文章を持っているはず。

僕もいくつか持っています。そのなかのひとつは……なんと自分の文章です。良し悪しは別にして、自分で書いた文章は、自分が心地よいリズムで書いています。だから自分の文章を読むとリズムが生まれ、次第に「なんか書けそう」という気になってくるのです。

ノンフィクション作家の野村進さんも著書『調べる技術・書く技術 (講談社現代新書 1940)』で、仕事に取りかかる前の〝集中の儀式〟のひとつとして、このペン・シャープナーを紹介されていました。

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 原稿を書くために集中するのは、けっこうしんどい。そのとき、お気に入りの文章、つまりペン・シャープナーを何気なく読むことで脳がシャープになり、迷いなく書き始めることができたりします。

このペン・シャープナー、ランニングでいう影の役割と似ているかもしれない。影武者のごとく、だれかが勝手に文章を書いてくれたらいいけれど。そういうわけにはいかないか。

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新婚旅行のお遍路さんで目にした看板のキャッチコピーに感動。

前回の記事(『ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由。』)を受けた内容をちょっと。

じつはうちの新婚旅行は四国のお遍路さんでした。当初はウィーンやブダペストといった音楽の都をめぐるおしゃれな旅を企画していて実際に予約までしていたのですが、ある日、妻から「やっぱりお遍路さんに行かへん?」と提案があり、ぼくも「ええやん!」と激しく同意(笑)して決まったのでした。わざわざ予約をキャンセルまでして。

さておき。

お遍路さんでは嫁さんと二人、一番札所の「霊山寺」から順打ちで歩いてまわりました。会社を休めるのは一週間程度だったので、十五番札所あたりまでたどり着くので精いっぱいでした。楽しかったな~。札所では「納札(おさめふだ)」と呼ばれる紙札に氏名を書いて納めるのですが、結婚して苗字が変わったばかりの嫁さんは「札所をまわるたびに『高橋』と書くので、少しずつ高橋さんになっていく気がする」と、ぽろっと言ったのが印象的で、内心嬉しかったのを思い出します。

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さておき。

徳島の町を二人、白装束で歩いているとき、数十年前のレトロな学生服の看板をみつけました。まっさらな学生服に身を包んだ中学生くらいの男の子が、希望に満ちあふれた表情で遠くを見つめています。

キャッチコピーは、このひと言。

「夢中になろうよ。」

抜群にいいコピーだと思った。

同じ看板で、別タイプのコピーもあって。

「未来は、ぼくの中にある。」

心を打つ広告のコピーって、こういうことなんだと思った。

期待と不安が入り混じった、なんとも言えない思いを抱く中学一年生。そんな彼ら・彼女らの背中を力強く、愛情深く、優しく押してあげる言葉。

言葉には力があると、再認識しました。同時に、広告コピーは嫌いでしたが、ちょっとだけ好きになったのでした。

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広告の費用対効果を数字ではかるのが難しかったひと昔前は、こうした人情味あふれるキャッチコピーも多かったように思います。でもいまはウェブと連動し、成約率が具体的に測定できる時代です。広告のキャッチコピーはコンバージョンをより重視した表現になっているように思う。

それじゃあ味気ないなあと思うけれど、漠然としたコピーもそれはそれで「その先へ。」みたいになるとこそばいし。キャッチコピーは難しいですね。

新婚旅行でお遍路さんに行ってからもう9年。思い出深いエピソードもあるのでまたお遍路さんネタで書こうかなあ。

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ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由。

いまから10年近く前、「その先へ」という言葉がつくキャッチコピーが氾濫した時代がありました。「その先へ」と書けばコピーらしくなるからつけとけ、みたいな。

たとえばこんな感じで。

◎おいしさのその先へ。
おいしさの先にいったい何があるというのだろうか。

◎ナンバーワンの、その先へ。
ナンバーワンの先にいったい何があるというのだろうか。
おいしさ編と少し違うのは、「その先へ」の前に「、」がついて、「ため」ができたくらい。
でも、一瞬ためて読んだところで、その先に待っているであろう楽しい未来の期待やイメージがふくらむわけではないように思う(のはぼくだけ?)

◎白さの、先へ。
これは洗剤のCM。白さの先は何色なのか。いや、言いたいことはわかるんです。真っ白になった服を着てデートを楽しんだり、家族の時間を豊かにしたり。そんなバラ色な感じの、クオリティライフ向上的な感じの充実感のイメージを、「その先へ」というひと言に託してしまうという、そのカッコつけた感じがこそばいんですね。。。

◎さあ、その先へ。
……笑。もうなんでもありですね。このコピーを読んで、「よし、その先へ行こう!」とだれが思うんでしょう。

ほかにも、「限界のその先へ」とか「優勝のその先へ」とか、その先だらけ。最終的には、「その先のその先へ」とか、「その後へ」とか逆張りパターンも登場してくるんじゃないかと期待していたら、このブームはいつしか収束していました。

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「その先へ」が氾濫するきっかけは、たぶん、JR東日本の広告だと個人的にふんでいます。

◎その先の日本へ。

これは、「男は黙ってサッポロビール」を書いた秋山昌さんという超メジャーなコピーライターさんが書かれたコピーです。このJR東日本の広告が出た当時、ぼくはやっぱり頭がわるいのか、「その先の日本って何?」と思ったもんです。

ぼくがいちばん好きなコピーライターの仲畑貴志さんが、〝何か言っていそうで何も言っていないコピー〟のことを、次のひと言を例にひいて揶揄されていたのを思い出します。

◎夢、それはドリーム。

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ぼくのライター人生はコピーライターからスタートし、「コピーの書けないコピーライター」と自虐するくらいコピーが書けませんでした。上記は一例ですが、けっきょく広告のキャッチコピーの嘘っぽい感じというか、枠にはまった感じが好きになれず、出版の世界に身を転じていまに至ります。

とまあ、こんなことを常日頃から考えているぼくは、数年前、大阪梅田のビッグマン(紀伊国屋書店梅田本店の前)から地下鉄御堂筋線に向かう階段を下りていたとき、ある看板広告が目に留まり、あやうく足を踏み外して落ちそうになりました。

◎語学の、その先へ。
なんと、母校の大学のキャッチコピーだった(笑)。

「おい、その先シリーズを継承してもてるやん……」。残念に思ったけれど、このコピーに関しては語学を身につけた先の未来がなんとなくイメージできるのでよしとしよう、と自分を言い含めたのでした。

関連ページ:ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由(2)

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