新婚旅行のお遍路さんで目にした看板のキャッチコピーに感動。

前回の記事(『ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由。』)を受けた内容をちょっと。

じつはうちの新婚旅行は四国のお遍路さんでした。当初はウィーンやブダペストといった音楽の都をめぐるおしゃれな旅を企画していて実際に予約までしていたのですが、ある日、妻から「やっぱりお遍路さんに行かへん?」と提案があり、ぼくも「ええやん!」と激しく同意(笑)して決まったのでした。わざわざ予約をキャンセルまでして。

さておき。

お遍路さんでは嫁さんと二人、一番札所の「霊山寺」から順打ちで歩いてまわりました。会社を休めるのは一週間程度だったので、十五番札所あたりまでたどり着くので精いっぱいでした。楽しかったな~。札所では「納札(おさめふだ)」と呼ばれる紙札に氏名を書いて納めるのですが、結婚して苗字が変わったばかりの嫁さんは「札所をまわるたびに『高橋』と書くので、少しずつ高橋さんになっていく気がする」と、ぽろっと言ったのが印象的で、内心嬉しかったのを思い出します。

***

さておき。

徳島の町を二人、白装束で歩いているとき、数十年前のレトロな学生服の看板をみつけました。まっさらな学生服に身を包んだ中学生くらいの男の子が、希望に満ちあふれた表情で遠くを見つめています。

キャッチコピーは、このひと言。

「夢中になろうよ。」

抜群にいいコピーだと思った。

同じ看板で、別タイプのコピーもあって。

「未来は、ぼくの中にある。」

心を打つ広告のコピーって、こういうことなんだと思った。

期待と不安が入り混じった、なんとも言えない思いを抱く中学一年生。そんな彼ら・彼女らの背中を力強く、愛情深く、優しく押してあげる言葉。

言葉には力があると、再認識しました。同時に、広告コピーは嫌いでしたが、ちょっとだけ好きになったのでした。

***

広告の費用対効果を数字ではかるのが難しかったひと昔前は、こうした人情味あふれるキャッチコピーも多かったように思います。でもいまはウェブと連動し、成約率が具体的に測定できる時代です。広告のキャッチコピーはコンバージョンをより重視した表現になっているように思う。

それじゃあ味気ないなあと思うけれど、漠然としたコピーもそれはそれで「その先へ。」みたいになるとこそばいし。キャッチコピーは難しいですね。

新婚旅行でお遍路さんに行ってからもう9年。思い出深いエピソードもあるのでまたお遍路さんネタで書こうかなあ。

Continue Reading

ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由。

いまから10年近く前、「その先へ」という言葉がつくキャッチコピーが氾濫した時代がありました。「その先へ」と書けばコピーらしくなるからつけとけ、みたいな。

たとえばこんな感じで。

◎おいしさのその先へ。
おいしさの先にいったい何があるというのだろうか。

◎ナンバーワンの、その先へ。
ナンバーワンの先にいったい何があるというのだろうか。
おいしさ編と少し違うのは、「その先へ」の前に「、」がついて、「ため」ができたくらい。
でも、一瞬ためて読んだところで、その先に待っているであろう楽しい未来の期待やイメージがふくらむわけではないように思う(のはぼくだけ?)

◎白さの、先へ。
これは洗剤のCM。白さの先は何色なのか。いや、言いたいことはわかるんです。真っ白になった服を着てデートを楽しんだり、家族の時間を豊かにしたり。そんなバラ色な感じの、クオリティライフ向上的な感じの充実感のイメージを、「その先へ」というひと言に託してしまうという、そのカッコつけた感じがこそばいんですね。。。

◎さあ、その先へ。
……笑。もうなんでもありですね。このコピーを読んで、「よし、その先へ行こう!」とだれが思うんでしょう。

ほかにも、「限界のその先へ」とか「優勝のその先へ」とか、その先だらけ。最終的には、「その先のその先へ」とか、「その後へ」とか逆張りパターンも登場してくるんじゃないかと期待していたら、このブームはいつしか収束していました。

***

「その先へ」が氾濫するきっかけは、たぶん、JR東日本の広告だと個人的にふんでいます。

◎その先の日本へ。

これは、「男は黙ってサッポロビール」を書いた秋山昌さんという超メジャーなコピーライターさんが書かれたコピーです。このJR東日本の広告が出た当時、ぼくはやっぱり頭がわるいのか、「その先の日本って何?」と思ったもんです。

ぼくがいちばん好きなコピーライターの仲畑貴志さんが、〝何か言っていそうで何も言っていないコピー〟のことを、次のひと言を例にひいて揶揄されていたのを思い出します。

◎夢、それはドリーム。

***

ぼくのライター人生はコピーライターからスタートし、「コピーの書けないコピーライター」と自虐するくらいコピーが書けませんでした。上記は一例ですが、けっきょく広告のキャッチコピーの嘘っぽい感じというか、枠にはまった感じが好きになれず、出版の世界に身を転じていまに至ります。

とまあ、こんなことを常日頃から考えているぼくは、数年前、大阪梅田のビッグマン(紀伊国屋書店梅田本店の前)から地下鉄御堂筋線に向かう階段を下りていたとき、ある看板広告が目に留まり、あやうく足を踏み外して落ちそうになりました。

◎語学の、その先へ。
なんと、母校の大学のキャッチコピーだった(笑)。

「おい、その先シリーズを継承してもてるやん……」。残念に思ったけれど、このコピーに関しては語学を身につけた先の未来がなんとなくイメージできるのでよしとしよう、と自分を言い含めたのでした。

関連ページ:ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由(2)

Continue Reading

「まとめ記事」をかいくぐり、価値ある情報にいかにたどり着くか

改めて思いますが「まとめ記事」が多いですね。世の中のあらゆるテーマについて、それはもうまとめまくられています。

このブログはワードプレスでつくりました。初めて使うシステムなので「???」の連続で、ワードプレスの使い方に関する検索をたびたびかけました。

そこで目につくのはことごとくまとめ記事。目次も設けてまとめられているのですが、内容が薄かったり、肝心のいちばん知りたい内容が抜け落ちていたり。とくに不親切だと感じたのは、ページタイトルの答えが明確に説明されていないケース。

ユーザーは何か解決したい問題があって検索窓にキーワードを打ち込みます。そのキーワードでヒットしたページのタイトルは、ユーザーが抱える問題の答えを表しているのであって、当然ながらページ内には具体的な解説がないとおかしいですよね。

でも、読み込んでいくと、ページタイトルと微妙にずれた内容がサラッと書いてあるだけ。ネットの記事が読まれるかどうかはタイトルにかかっているという。でも書籍と一緒で、実態の伴わない釣りタイトルは読者を裏切り、その影響はいずれ運営者にはねかえってきます。

***

内容が薄い理由はかんたんで、そうしたまとめ記事は運営者本人が自分の利益のために書いているから。検索数の多そうなテーマを拾ってまとめ記事を無数に書いて、ページビューを増やして広告収入を得るという。

でもなかには職人的に上手にまとめてあるブログもあって、そういう記事を読むとテーマについての全体像をつかめるし、気になった内容を追加で検索をかけて調べるという、道しるべみたいな役割を果たしてくれて助かります。

***

厄介なのは、まとめ記事はSEO的にはバッチシなので、検索サイトの上位にことごとく出現してくること。ネットを使うほうはフィルターを一枚増やし、そういうのをかいくぐりながら有益な情報にアクセスする感度とテクニックが、これまで以上に必要になってきたように思います。

検索エンジンのアルゴリズムは日々変化しているので、そうしたユーザー本位でないまとめ記事は、ある日突然、いっせいに検索結果から消される日が来るかもしれません。

ともあれ、情報があふれる時代。どういう立場の人が、どういうテーマについて、どのような切り口や視点を持っているのか。単なる情報ではなく、いち個人が発信する「コンセプト」みたいなものがより求められる時代になったと個人的に考えています。

Continue Reading

リアルよりウェブのほうが人見知りする?

このブログは2016年2月1日にオープンしたので、今日時点で1ヶ月と少し経ちました。

なんというか、思いのほか苦戦しています。苦戦というのはアクセス数がどうのこうのという外部の反応ではなく、手ごたえがいまいちつかめないという内面的な問題。

とにかく文章が硬くなる。かしこまった感じになる。就職活動に励む学生がスーツを着こなせていないのと同じように、ブログの文章にこなれ感がないというか。ライターなので文章を書くのはプロなわけですが、自分のことになると、とたんにペンが無口になってしまう。

こういう状態は、ブログ立ち上げ直後に多くの人が陥るみたいです。なにかいいこと言わないといけない、ちょっとしたものの見方や独自の切り口を披露したい。そうやって背伸びした結果、ふくらはぎがつって立っていられなくなる。

ここからが勝負かもしれません。ふくらはぎがパンパンにはってきて、賢そうな記事を書こうとしてもいよいよネタが尽きてきて。開き直ってからがほんとうのブログのスタートなのかもしれません。

***

ウェブでの情報発信という意味では、2000年にHTML手打ちで独自サイトを開設、2005年頃にはアジア旅行記のサイトを立ち上げ人気サイトに育ちました。フリーランスになった2008年には陸上のトレーニングブログをつくり、マニアックな情報発信を続けてきました。ウェブ遍歴はわりと長いのに、そしてこれらのサイトやブログでは自分らしさをおそらく出せていたのに、このブログはいまいちつかめない。

なんでかと考えると……

・書いている本人が楽しんでいるか
・だれに向けた記事なのか、ディスプレイの向こう側の人が見えているか
・だれの役に立つ記事なのか
・自分をさらけ出す覚悟があるか

このあたりが漠然としている点に問題があるかなと思えたり。

ところがいざディスプレイの向こう側の「あなた」に向けて何かを伝えようと思うと、なぜか恥ずかしい(笑)。

これまで運営してきたサイトやブログはプライベートなものでしたが、このブログは仕事の肩書き(走る編集ライター)の受け皿的意味合いを持たせている点ももやもやと関係しているかもしれません。

いずれにせよ、リアルの対面だとお互いを見せ合うわけだけど、ウェブの場合、ディスプレイの向こう側の「あなた」はぼくにはわかりませんから。

もしかすると、ウェブのほうが、(空想の)人見知りをしやすいのかもしれない。

ということがわかったこの1ヶ月でした。

Continue Reading

書籍ライターで生きていくには「コミュニケーション力」が絶対必要(3)

書籍ライターで生きていくには「コミュニケーション力」が絶対必要(2)』では、書籍ライターと著者との関係づくりについて考えました。

次に編集者との関係づくりです。

編集者は社内外の多くの関係者と関わりながら一冊の本をつくりあげていきます。5冊や10冊(あるいはそれ以上)は同時進行し、企画を考えたり、取材に同行したり、著者やライターから上がってくる原稿を整理したり……それはものすごく忙しく立ち回っています。

そうやってたくさんの人と関わるので、編集者はバランス感覚に優れた方が多いです。

そうした人からみると、おそらくぼくも含めたライターはどこか社会性に欠けた独特の生き物として捉えられているような気がします。ひと言でいえば、「このライターはちゃんとしている人だろうか」と。

だから編集者との関係づくりで書籍ライターがまず気をつけるべきは、ちゃんとすること。笑ってしまいそうなことですが、基本があるから応用があります。

ぼくは幸い、編集者という立場でライターと仕事をする機会がごく稀にあるので、いちライターとして活動する際は自分の言説を編集者の目線で注意深く律している(つもり)です。

たとえばメールや電話のやりとりもそうで。忙しい編集者に要点や要件が端的に伝わるメールの文面にまとめるのはもちろん、電話をするタイミング、さらにはそもそも電話をすべきかといった連絡の取り方にも気を遣います。

極力電話でやり取りしたい人なのか、基本はメールで済ませたい人なのか、SNSツールを柔軟に使う人なのか、編集者の仕事のやり方に応じてこちらの対応を合わせます。

***

書籍ライターにとっての編集者との関係づくり、けっきょくは「慮る」ことに集約される気がします。編集者が置かれている状況に思いをめぐらせ、自分がいかに動くのかを考える。

さらに核心を突けば、書籍ライターが編集者を慮る最大のポイントは、自戒を込めて「納期を守る」ことと断言します。一事が万事で、納期を守れない時点ですべてが台無しになってしまいます。

じゃあぼく自身はどうなのかと聞かれると、納期を外した経験は一度もないと胸を張って言えるわけではありません。

編集者さんとの関係の中で双方のスケジュールを調整し合い、協力し合って進めてきました。でもこれは信頼関係ができていないと難しい調整で、ご迷惑をおかけした経験が一度だけあります。それは別の機会でまとめたいと思います。

Continue Reading

書籍ライターで生きていくには「コミュニケーション力」が絶対必要(2)

書籍ライターで生きていくには「コミュニケーション力」が絶対必要(1)』で書籍ライターに必要なのは、広義の「コミュニケーション力」だとお伝えしました。

そもそもコミュニケーション力ってなんでしょう。

他者と上手に意思疎通できる力、集団の中で協調できる力……など、調べるといろいろ解釈が出てきます。

そうした能力ももちろん必要ですが、「広義の」と書いているように、書籍ライターに求められるコミュニケーション力は「信頼関係づくり」と密接につながっていると解釈しています。

なぜかといえば、「書籍づくりには正解がない」からです。

答えがないなか、著者、編集者、ライターはああでもないこうでもないと試行錯誤しつつ、トンネルの出口を探し求めます。そして「たぶんこれだろう」と三者が納得したものが、結果としての「正解」になります。

そうやって意思疎通を図り、意見統一にまで至るためには、お互い信頼し合い、尊重し合っていなければ難しいと思うんです。

***

では信頼関係の醸成を前提としたコミュニケーション力ってなんでしょう。

……と理詰めで考えていくと、すごく難しい問題ですね。これこそ正解のない問いだったりする。

ぼく自身も著者や編集者の方々と少しでも良い関係を築けるよう、いまも模索の最中にあるという前提で、意識していることをまとめてみます。

まず著者との関係づくり。

服装や挨拶、話し方といった社会人としてのマナーをきちんとするのはまず絶対条件。この基本がなければ信頼関係なんて築けません。

そのうえで、「著者の思いをくみ取る力」がライターには必要かなと思います。

ライターは、その道のプロフェッショナルである著者と対峙して取材を行います。著者は「このライターは自分の考えやノウハウ、思いをちゃんと理解し、質の高い原稿にまとめてくれるだろうか」と不安に思っています。

その著者の不安を安心に変え、信頼にまで高めるためには、「あ、このライターはわかっている」「この人に任せても大丈夫」という腹落ちが重要だと思うのです。

この腹落ちを積み上げていくことがライターにとっての意思疎通能力であり、信頼を醸成するためのポイントなのではと考えています。

なかなか難しいですが……どのような著者に対してもそうした高度なコミュニケーションができるライターでありたいと努力しています。

次回(『書籍ライターで生きていくには「コミュニケーション力」が絶対必要(3)』)は、編集者との関係づくりに焦点をあてたいと思います。

Continue Reading

書籍ライターで生きていくには「コミュニケーション力」が絶対必要(1)

書籍ライターに求められる能力は文章力ではない?』で書籍ライターは文章力が備わっているのが前提という話をしました。ライターは文章を書く専門家なので、必要な能力として文章力を挙げること自体、そもそもおかしいのではと個人的に思います。

ですが、文章力があればそれだけで書籍ライターとして長くやっていけるのかといえば、必ずしもそうではないと思っています。

では書籍ライターに何が必要かといえば、広義の「コミュニケーション力」です。

矛盾するようではありますが、仮に文章を書く力は発展途上にあったとしても、編集者や著者といったクライアントと気持ちよくコミュニケーションがとれるライターは重宝される可能性が高いです。

その上で書く力を磨く努力を続けていれば、「このライターを育てよう」と編集者に思ってもらえるのではと考えます。

***

書籍づくりをとどこおりなく進めるためには、著者、編集者、ライターが心を合わせ、ビジョンを共有しなければなりません。そのためには三者がそれぞれ信頼し合い、お互い尊重し合いながら制作を進めていく必要があります。

「読者に感動を与える本をつくろう!」

そうやって三者が強い思いを共有してつくり上げた本にはエネルギーが宿り、その熱は読者に伝わるものだと信じています。

反対に、三者の信頼関係が崩れると、何らかのトラブルに発展する可能性が高くなります。書籍の方向性で意見が食い違ったり、文章の内容やテイストに著者が強く難色を示したり、最悪のケースでは出版を取りやめる騒動に発展するリスクもゼロではありません。

だから編集者は著者との関係づくりに心を砕きますし、ライターにも同じような心構えで臨んでほしいと期待しています。

***

編集者とライターの関係も同様です。

編集者とライターの相性で書籍の質は左右されます。編集者は飴とムチを使いわけながら(笑)、執筆に懊悩呻吟するライターを叱咤激励し、ライターはその編集者の言葉に支えられながら10万字という長い道のりを走り切ろうと歯を食いしばります。

編集者とライターが良い関係を築いていなければ、そうした二人三脚のやりとりは難しくなります。

つまり編集者は「著者との関係づくり」「自分との関係づくり」という2つの側面で、ライターに広い意味でのコミュニケーション力を求めているのです。

次回(『書籍ライターで生きていくには「コミュニケーション力」が絶対必要(2)』)は、コミュニケーション力の具体的な中身について考えてみます。

Continue Reading

なぜ電子書籍は思ったほど普及しないのか?

「もの」の価値、「本」の価値』で、本の本質的な価値は「もの」ではなく情報だと書きました。コンテンツそれ自体が価値なので、いくら複製(増刷)しても書籍の持つ情報の質は変わらないということです。

その意味では、情報の「入れ物」は何でもいいということになります。紙の本でも、電子書籍でも、cakesのようなコンテンツを切り売りするようなウェブサイトでも、情報の価値は同じ。まさしくそのとおりでしょう。

それは音楽メディアもそうで。

音楽メディアの場合、楽曲というコンテンツが商品なので、入れ物の種類は問われないことになります。

レコード、カセットテープ、CD、MD、データダウンロード……。

音楽メディアのコンテンツの入れ物は、時代とともに変遷を重ねてきました。若い人はCDすら持っていないという人もいるかもしれません(1977年生まれのぼくはCD世代)。いまや音楽メディアは、入れ物としてのハードはスマホになり、ソフトコンテンツそのものが裸でやりとりされる時代です。

***

これと同じレベルで書籍を考えたら、コンテンツの身ぐるみがはがされて、情報そのものがむき出しになってやりとりされる時代がきそうです。

というかもうとっくにきているはずなんですが、実際には紙の本と比べて電子書籍が相対的にシェアを大きく伸ばしているのかといえばそうなっていません。数年前は「紙の本は死んだ」みたいに言われていましたが……。

アメリカン大学の教授がアメリカ、日本、ドイツ、スロバキアの大学生を対象に読書に関する調査をしたところ、9割以上の学生が「しっかりとした読書をする場合には紙の書籍がいい」と回答したとのこと。ニューヨークタイムズ紙も「電子書籍の売上が2015年に入ってから最初の5ヶ月間でおよそ10%減少傾向」と報告しています。

音楽メディアはデータの移行が進んだのに、なぜ書籍コンテンツはそうならないのか。

やっぱり「紙の本が持つ価値」がしっかりと根づいているからだと思います。書籍には、本質的な価値以外に、「紙の入れ物」という物理的な価値も内包されているということです。

なんか複雑ですが、だからこそ書籍の電子化は簡単には語れないんでしょう。

では紙の本が持つ価値がどうして薄れないのか。

それは物理的な機能、所有欲を満たしてくれる感性的なメリットに加えて、「文化」が影響しているのではと想像します。次回、そのへんについて考えてみたいと思います。

Continue Reading

「集中」とは、「力を抜くこと」である

自己防衛の手段として「左手」を犠牲にしてきた』で左手を握りしめる癖があるとお伝えしました。じつはそれだけでなく、口も無意識に噛みしめていることが多いです。

原稿を書いているとき、車を運転しているとき、テレビを見ているとき、風呂に入っているとき……集中したりぼーっとしたりしているあらゆる時間、ふと気づくと食いしばるように強く噛みしめているんです。

***

口の食いしばりはちょっと心配な面があります。

以前、頭痛がひどい時期がありました。体調を崩したわけでもないのに、突然、頭が割れるように痛くなる。そうなると仕事なんてできないから、頭痛薬をのんで布団にもぐりこむことになります。薬が効いてひと眠りしたら、だいぶ楽になります。

あるときから、食いしばりが頭痛の原因になっているんじゃないかと思うようになりました。

きっかけは、自分のくちびるをめくった際に見てしまった……歯茎の衝撃の姿です。まるでこぶができたように、歯茎の骨が異様に飛び出していたのです。

これは歯茎の「骨隆起」と呼ぶらしく、食いしばりが強い人に多く見られるとのこと。ぼくは起きている時間帯の噛みしめに加え、寝ている間の食いしばりもかなりひどい。

目覚めた時点でカラダがすでにだるく、頭がどんよりと重たい日は、いつも以上に強く食いしばっていたのではないかと思っています。

***

この悪い癖を防ぐ手立てのひとつは、ふだん、目につく場所に「食いしばるな」といった目印を張り、常に意識することだそうです。でも睡眠時は意識できないので、ひどいケースではマウスピースが必要になるのだとか。

ぼくの場合、起きている時間帯に口の閉じ方を意識し始めてから、悩まされていた頭痛がだいぶ楽になりました(歯と歯を触れさせず、舌を上あごにぴたりとつけるのが正しい口の閉じ方だそうです)。カイロプラクティックでカラダの歪みを矯正してもらった効果も出ていると思いますが。

***

スポーツをやっていた人間は、ほんとうの集中とは「力を抜くこと」だと知っています。ぼくも陸上選手として力を抜く方法を自分なりに体得したつもりです。

でも仕事中は集中するほど、カラダのどこかに力が入ってしまう。

集中とは、力を抜くことにあり。

その意味では、ライターとしてはプロフェッショナルの域に達していないということになる。ライターになって14年。まだまだ鍛錬が必要なんだなあ。

Continue Reading

自己防衛の手段として「左手」を犠牲にしてきた

一年ほど前に気づきました。

「あれ? 左手が開きにくいぞ」と。

別に開こうと思えば、パッと開くんです。でも開きながら、左手首の内側の筋が引っ張られる違和感がある。

左手を開き、さらに手首をそらせるとテンションが強くなって、その引っ張られる感覚が強まる。まるでギターの絃を張りすぎて、バチンと切れてしまいそうに。

右手に違和感はありません。だいじょうぶです。右手を開いても、手首をそらしても何にも感じない。

***

なんで左手だけなんだろう。

数ヶ月、考えるともなく考えていると……。

なんとなく理由がわかりました。一日中、無意識に左手を握りしめているからです。

パソコンで原稿を書いているときは左右の指は動いていますが、それ以外の多くの時間、たとえば執筆の合間に考え事をしたり資料を読み込んだり、そうやって何かに集中しているときに握りしめていることが多い。軽くではなく、手首の内側の筋がすこし浮き出るほどグッと強めに握っている。

ではなんで左手だけなのかといえば、集中して何かをするときは右手に万年筆を持つ癖があるから。持つだけでなく、意味なく万年筆を手の中で転がしたり、必要があればキャップを回しとってメモしたり線を引いたりしているので、右手は休まる暇がない。

左手はフリーだから、知らず知らず、ぎゅーっと収斂してしまう。

***

左手が花開かず、つぼみのように閉じていく方向にベクトルが向かい始めたのは、おそらくフリーになってからだと思います。

フリーランスはすべてが自己責任の世界。だから、緊張しているんだと思う。

その緊張が左手を委縮させる。左手に緊張を閉じ込めさせる。そうすることで、結果的に自分を冷静に保っているのかもしれない。つまり無意識の自己防衛手段として、左手が犠牲になっているのだ。

***

とまれ、ずっと左手を握っているから、手首の筋も凝り固まって、いざ開こうとした際に突っ張ってしまう。肩や首の凝りは筋肉が無意識に緊張することが原因であるように、ぼくの左手首も早い話が「凝って」いるのだ。

フリーランスになって8年、若干無理して突っ走ってきたんでしょう。もっと肩の力、だけでなく手首の力も抜きながら仕事をしたいものです。

関連記事はこちら→『「集中」とは、「力を抜くこと」である

Continue Reading