文章の展開がパターン化しない接続詞の使い方、いまだ模索中

「そして」や「また」といった並立の接続詞はなるべく使わないよう意識しています。

とくに1000文字程度の短いインタビュー原稿を書く際は、一度でも使った時点で「負け」と思っているので基本使わない。並立の接続詞を使用した時点で論理展開が破綻している可能性が高いからです。書籍の原稿はさすがにゼロというわけにはいきませんが、安易に用いないよう自分を戒めています。

並立の接続詞には、前後の文や文節をつなぎ、そのつないだふたつの文・文節が対等関係にあることを示す役割があります。

そもそも前後の文脈がしっかりしていれば「そして」や「また」をわざわざ入れる必要はないし、入れないと意味が通じない文章であるのならすでに何らかの論理破綻をきたしていることになります。後者の場合は接続詞に頼るより、文章の展開自体を見直したほうがいい、そう思っています。

と言いながら、つい〝手がすべって〟不必要な箇所に使ってしまっていることはたまにあります。

並立の接続詞に限らず、接続詞はできる限り使わないで文章を書きたいと意識しています。接続詞が少ない文章は、まるで清流に身を任せて川面をすべる小舟のように、意味が淀みなく流れていくから読んでいて気持ちいいです。

しかし、と「しかし」をここで使ったように、逆接の接続詞は例外的によく使用します。川の水面に頭をのぞかせる小岩のごとく、小舟をくるんと逆転させる効果があるからです。

「ぼくはこれこれこう思う。それはこれこれこういう理由です。そうやってこれこれ思っているぼくの意見に対して、それはほれほれだろうという反対意見があるのも理解しています。しかし……」

というように、自分の意見を主張したうえで反論をさしはさみ、その上で自分の意見をかぶせて補強するというような論文的な展開が必要になる場面がけっこうあります。

ある意味、それらしい文章を書く際に逆接の接続詞は便利だったりします。つい多用してしまいがちになるのですが、あまり頻繁に使用してしまうと文章がパターン化して読み手は腹立ってくるんですねー。

展開が読めてしまうというか。言いたいことが分かってしまうというか。

接続詞の使い方はむずかしいです。

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※ちなみに接続詞に関する好著はこちら『文章は接続詞で決まる (光文社新書)』。接続詞の役割と効果的な使い方が凝縮した一冊で勉強になります。

あとこんな本『文章が一瞬でロジカルになる接続詞の使い方』も。論理的な文章の書き方について、このページで書いたのと同じようなことが書いてありましたので参考に。

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ブックライターとして大切にしていること

ブックライターの仕事に誇りをもっています。この仕事が天職じゃないかと思うほどです。

なぜそう思えるのかというと、著者の方々が世の中の一人でも多くの人にどうしても伝えたい思いを直に伺い、それを一冊の書籍にまとめる大役を任されているからです。ライターが書く原稿の良し悪しで本の出来が決まる、そういっても過言ではありません。

とはいえ、著者本人がペンを握るのが、やっぱりいちばんだとは思います。著者が書いた文章は多少難解な面があったとしても、そのひと言、その表現の選択に、本人にしか分からない経験や思考の痕跡が乗っかっているからです。

その言葉を紡いだ著者の深層心理は、いくらヒアリングを重ねて著者のことを理解したつもりになっていたとしても、ライターには到底踏み込むことができない神聖な領域です。著者から「私の言いたいことをうまくまとめてくれた」とお褒めの言葉を頂戴する機会もあるわけですが、それでも著者本人が汗を流して原稿を仕上げるのがいちばん濃い内容の本になると思います。

ブックライターの自分の存在意義を否定するのかと思われるかもしれません。しかし矛盾するようではありますが、ブックライターがいるからこそ世に出ることがなかったかもしれない宝物のような情報が掘り起こされて一冊の書として編まれ、その宝石のような本が書店に並び、必要とする読者の手に届き、感動や喜びを与えられるようになるのもまた事実です。

著者の思いが読者に届く、これはほとんど奇跡です。その奇跡を起こす当事者のひとりとして、現場に立ち会えるこの仕事に誇りを感じるし、なにより面白くないわけがない。

ぼくのプロフィールは、「職業は編集ライター、仕事は一人でも多くの人の役に立つこと、一人でも多くの人に感動や喜び、希望を与えること。」という一文でしめくくっています。

一介のライターに過ぎませんが、「書籍を通して一人でも多くの人に著者の思いを届ける」のがぼくの「仕事」かなと思っています。

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一冊の本を書くためには「軸」と「流れ」が必要

いま新しい書籍の原稿を書くための下準備をしています。

テープ起こし(取材の音源を書き起こした資料)や各種の関連資料をひたすら読み込み、書籍全体の「軸」と「流れ」を〝自分のもの〟にするための儀式です。

単発のインタビュー原稿であれば取材後にパッと取り組めますが、一冊まるごと書く場合はこの儀式を経ないとこなれた文章が書けない気がしています。

書籍全体を串刺しにする軸が腑に落ちていないと内容や表現が揺れるし、流れが自分のものになっていないと項目ごとに内容がぶつ切りになってしまうからです。

この儀式は、ただ資料を読んでいるだけといえばそれだけなのですが……とにかく腹が減る!

アホな頭の内部のどこかがたぶん局所的にフル稼働していて、ブドウ糖をものすごい勢いで消費していると思われます。

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この儀式を終えると、次に各章の項目出しと、それぞれの項目のキーワードを並べていきます。構成づくりですね。

ここで書籍全体の流れをさらに脳みそに浸透させていきます。こういう地道な作業を続けるうちに、書籍全体の軸と流れが自然な感じで身になっていく実感があります。

この実感がつかめるころになると、それまでこんがらがっていた情報が理路整然と整理され、実際の原稿の書き出しや内容がおぼろげながらイメージできるようになっていたりします。

そうなると、あとはキーワードをひたすら打つのみ。原稿を書くのは、思考作業を終えたあとの肉体労働、みたいな感じです。

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ところで、ライターさんによっては書籍全体の流れや章ごとの展開に関係なく、書ける項目から先にどんどん書いていって、途中でつなげて全体の流れを整理する人がいるみたいなのですが、ぼくは絶対にムリ。

軸と流れを頭に叩き込んだ状態で、実際に本を読むように1章のはじめから順番に書いていかないと全体的にぎこちない内容になってしまう。最初から書かないと気持ち悪いというか。

いま思いついたけど、お遍路さんの逆打ちのように、本の最後から最初に向かって書いていくとどうなるやろ(笑)。そんなことやるわけないけど。

でも雑誌は最後から読むのが好きだったりするんですけどね。

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「性根」を知ってもらうブログ

このブログを立ち上げて3ヶ月半ほど経ちました。

最初は堅苦しい内容をがんばって書いていましたが、続けるうちにいい意味でどうでもよくなってきました(笑)。肩の力が抜けてきたというか。

このブログをつくる際にいちばん考えたのは、「誰に何を伝えるか」ということでした。

たとえばこのブログに仕事を得るという目的をもたせるのであれば、もっと明確なコンテンツをつくれたはずです。自分の仕事の実績をバーンと出して、ライティングスキルを分かりやすく解説するようなハウツーを書いたりして。

でもそういうブログにはしたくありませんでした。

じゃあ、誰に何を伝えるの?――。

その堂々めぐりにはまり込んでいました。

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これまでも自分のサイトやブログを幾つもつくってきたわけだし、今回も新たにブログをひとつ立ち上げるくらいでそこまで悩む必要もないにもかかわらず、あーだこーだ考えているとき、妻がいい言葉を教えてくれました。

「性根」

「ライターとしての性根を伝えるブログにしたらいいんちゃうの」――と。

「性根(しょうね)」を辞書で引くと、「その人の根本の心構え」「心の持ち方」といった意味が出てきます。大ファンの宮本輝の小説で「心根」という言葉が出てきて大切にしていますが、性根もその心根に似た言葉のようです。

仕事でも何でもそうですが、人や社会に役立つことをしたいなと思ったとき、何をするかも大事ですが、誰とするかはもっと大事なように思います。

同じ志やビジョンを持って誰かと何かをするためには、まず自分とは誰かをさらけ出す勇気が必要だと、嫁さんから性根という言葉を聞いてすんなり腑に落ちました。

結果として、このブログでは自分がふだん大切に思っていること、考えていることなどを、内容的には面白くなくても地道に書いていこうと決めたのでした。

ただし、まったく脈略なくひとりの人間の思いを垂れ流してもあれなので、3つの立場に切り分けて、それぞれの立場に沿った内容を意識しながら書いていくことにしたわけです。

だからなんというか、このブログは全体的に何がしたいのか分かりにくいサイトではありますが、自分という人間をさらけ出す受け皿になってきたかなという感触はあります。

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ついでに付け加えると、このブログの立ち上げは自身の仕事の経験やスキルを見つめ直すきっかけになりました。

その思考の延長線上で「企業出版」に関する何らかの事業を展開しようかなと、新たなアイデアが生まれていま準備中です。当初はその事業内容をこのブログ内で公開していきますが、ある程度全体像が固まった段階で別サイトを立ち上げる予定です。

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ハンマー投げの室伏選手が語ったひと言に衝撃

きのう、家族で外出先から帰宅してテレビをつけるとタイミングよく陸上のゴールデングランプリ川崎が行われていました。

男子100メートルは9秒台の重圧と向き合う桐生選手、ボルトが持つ200メートルの世界ユース大会の記録を破った高校生サニブラウン選手、2012年のロンドン五輪で準決勝に進出した山縣選手と、3名の日本人選手が名を連ねて手に汗握りました。

結果は2015年世界選手権銀メダルのガトリン選手が10秒02(-0.4)で制し、2位は10秒21で走った山縣選手。桐生選手は4位に沈み、サニブラウン選手は5位でした。

世間的には桐生選手の記録更新も待ち望まれますが、ぼくは山縣選手の復活が嬉しかった。

ロンドン五輪後は怪我に苦しみ、その後は桐生選手とサニブラウン選手にスポットライトが切り替わり、山縣選手がメディアに登場する機会はめっきり減っていました。

辛かっただろうなと思う。インタビューで山縣選手が「緊張した」と何度も言っていたのが印象的で、意識しないわけにはいかない2選手と並んで走るという極限状態の中で競り勝つというのは実力意外の何ものでもない、そう感じました。

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同時に、走るたびに9秒台を期待される桐生選手も気の毒だと思いました。

100mの記録は心身の調子だけでなく、風向きや気温、天候などの気象条件も大きく左右します。すべての条件がピタリと整った状態でようやく「出るか、出ないか」――という勝負の世界なので、毎回、結果だけを見て「9秒台突破ならず」と評価されると酷だと思う。

でも本人の口から外部環境を引き合いに出して、記録が出なかった理由を説明するなんてできませんからね……。

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とはいえ勝負の世界では、ここ一番で勝つ選手が強いです。残酷なほどに結果がすべてです。プロセスも大事というけれど、いくらプロセスが充実していても、結果が出なければ意味がない。それが勝負の世界です。

でも……。

ハンマー投げの室伏選手のこの言葉を知って鳥肌が立ちました。

「投げるのは、結果」

将来有望な高校生のハンマー投げ選手に室伏さんが教える番組を以前やっていました。

「投げる前の準備動作や体のつくり方、フォームのつくり方、日々の練習、そこですべてが決まる。投げるのは、結果」

こう語る室伏さんの言葉を高校生がどれほど理解していたかはわからないけど、テレビの前のぼくは口から泡を吹いて倒れるほど衝撃を受けました。

「投げ急ぐ」という言葉がありますが、結果を求める気持ちが強いほど体の動きのバランスが崩れ、記録はでません。そうではなく、投げるまでの準備に最善を尽くせば、あとは「投げる」という投擲動作そのものですらが結果となる。

室伏さんにとっては、もはや記録は結果ですらないかもしれない。記録は「おまけ」程度というか。

いや、室伏さんの言葉の真意を推し量るすべはありませんし、ぼくの理解力で表現するには無理があります。それでも、ハンマー投げという競技を超えて修行僧のように鍛錬を重ねる室伏さんの表情には、記録を短絡的に追求しているのではないという思考の痕跡が刻み込まれているように感じます。

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これまでのプロセスの結果である競技動作の、さらにそのおまけでしかないかもしれない記録を、目標として追い求める矛盾と難しさ。このプロセスと結果の葛藤を乗り越えた選手が真に「強い」ということか。

9秒台が常に期待される桐生選手もそうだし、国内外の第一線で活躍する陸上選手には、ほんとうに頭が下がります。

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明窓浄机は人それぞれ?

いま書籍の原稿を書いていて、デスク上に資料が散乱してきました。

ふと思い出したのが昔、自分のブログに書いた記事。2010年の記事だけど、いまも昔も同じだなあ。

 

(昔の記事)

仕事が乗ってくるほどデスクの上が資料でめちゃくちゃになる。

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2010年当時のデスク

他人が見ると整理ができないダメ人間に思われるかもしれない。でも、散乱した資料には自分なりの秩序があり、必要なものはおおむねすぐ探し出すことができるから不思議だ。

雑踏に身を置くことで逆に集中できることがあるように、カオスの中にこそ自分なりの規則を発見できるのかもしれない。仕事ができる人の机を見ると、上に何も置かれてなかったりすることがある。でも、清らかな机の上では仕事ができない人だっている。僕のように。明窓浄机は人それぞれなのだ。

仕事の合間のひとり言。

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ゴーストライターの役割

著者から話を伺って、聞き書きのスタイルで一冊の書籍を書き上げる仕事をしています。

こういうタイプのライターを世間一般では「ゴーストライター」、このブログでは「書籍ライター」「ブックライター」と呼んでいます。

ゴーストライターをずっとやっていると、聞き書きスタイルで書かれた本をなんとなく見わけられるようになってきました。

ゴーストライターがまとめた書籍の原稿はたしかに読みやすいです。でも反面、内容が薄いことがある。

極端にいうと、たった一文で済む内容を2000文字にまでふくらませているような。

本題に入るまでの導入や例え話がやたら長く、ようやく本題に入ったかと思うと、早くも締めに向かい、「あ、この一文を言いたいための展開だったのね」と納得するという。

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ぜんぶがそうではありません。

優秀なゴーストライターが書いた本は著者ご本人がまとめるよりも文章的に読みやすいのはもちろん、内容自体も幾度のインタビューを通してアウフヘーベンしているため、濃密で、論旨も通っている。

インタビューの目的は、著者がすでに自覚している考えを引き出す側面と、著者に気づきを得ていただく側面のふたつがあるように思います。

とくに後者が重要で、取材のやりとりを重ねるうちに著者の頭の中で化学反応が起きて、これまで漠然としていた思いを整理してもらったり、新たな考えやアイデアを思いついてもらったりすると、インタビュアーとしては「よっしゃ」と心でガッツポーズすることになります。

そんな有意義な取材を経て書かれた原稿は内容的にも濃くなるように思います。

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著者自身の手によって書かれた原稿は多少難解な面もあるかもしれないけれど、その一文、その一文字のすべてに背景があります。

これまでの経験が文章に凝縮して乗っかっているから、その一文、その一文字に、すべて物語がある。だから深い。読みにくくても、そういう本に出合うとうれしいです。

一文を2000文字にふくらませるような書き方ではなく、著者自身がこういうことを言いたかったと膝を打つような原稿をもっともっと書けるように、少しずつでも成長していきたいと思います。

書籍の実績はこちら⇒(ゴーストライター 実績

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てんとう虫は神様です

てんとう虫は神様だと思っています。

4歳の娘が保育園のもも組(3歳児クラス)を終了し、進級式が行われた日の夕方。

自宅のリビングで食事中に娘が「てんとう虫!」というので見てみると、テーブルの上にちょこんと乗っていました。

「てんとう虫が進級おめでとうって言いに来てくれたんやわー」

そうやって妻が娘に言っていました。

翌日、妻と娘の手で庭に逃がしてあげていました。

ところが数日後、また同じ模様のてんとう虫がリビングの網戸の内側に張りついています。

ブラックボディに赤い斑点が2つという、ちょっと変わったデザインのてんとう虫だったので嫁さんが覚えていました。「この子、この前の子といっしょちゃう?」と。

なんでまたやって来てくれたのかはわかりませんが、まだ娘におめでとうを言い足りなかったのかもしれません。

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てんとう虫は神様だと思うようになったきっかけ。

それは父の退職祝いの旅行先でのちょっとしたエピソードです。

50年勤め上げた会社を退職した父のお祝いをかねて、両親と嫁さん、ぼくの4人(まだ娘は生まれていなかった)で四国に旅行に行きました。

その日の夕食のとき。

各自の前に置かれている鍋に火をかけてぐつぐつ煮たってきたとき、父親の鍋からてんとう虫が出てきたんです! 熱くて逃げてきたんでしょう(笑)

そのとき、中学校を卒業した翌日から半世紀にわたり、同じ会社で働き尽くした父に「おつかれさん」と言いに来たんだと、内心思ったわけです。

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てんとう虫に限らず、神様はときどき、虫などの生き物に姿を変えて様子を見にこられるらしいです。信じるか信じないかは、あなた次第(笑)。宗教うんぬんではなく、ぼくはけっこう信じています。

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インタビューした人の名刺を前に置いて原稿を書く理由

インタビュー原稿を書く際に必ずやっていることがあります。

それは、インタビューした人の名刺を目線の先に置くこと。

目に入る場所に名刺を置いてその人の存在を感じながらだと、それはそれはいい原稿が書ける、かどうかは分かりませんが、いつの頃からかジンクスのようになってしまいました。

名刺があると単純に便利、という理由もあったりします。たとえば肩書や住所を確認したいとき、サッと名刺を手に取り、パッと確認し、キュッと原稿に反映できます。執筆の手を止めて調べるという煩わしいひと手間が省略されて気分も良いです。

でもまあ、なんというか、名刺を前にして書くと気が引き締まるというか、手を抜けないというか、心を込めて書く安心感を得られるというか、誠意を尽くして仕事ができるような気がしているのも事実。

たぶん、自分が弱いんでしょう。そうでもしないと「よし書くぞ」と自分を鼓舞できないというか。強い人はそんなことをしなくてもしっかりと原稿に向き合えるんでしょうね。

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たいせつなことに気づかない習慣のこわさ

先日、ある場所に出張で訪れました。

現地の空港で入ったレストランで感じた率直な感想。

店員さんがみんな無愛想、というか魚の死んだような目をしている。

不愉快ではなく、残念な気持ち。

たぶん家に帰って家族と過ごす時間、恋人と過ごす時間はふつうのはず。でもレストランで働いているときは目から生気が失われている。

習慣ってこわいなーっと思いました。

その人たちも、プライベートで食事に行って店員さんがみんな無愛想だったら違和感を持つはず。でも自分がそうなっているのは気づかない。

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こういう場面に遭遇すると、いつも自分に置き換えて考えてしまいます。自分は気づかないだけで、人を不愉快にさせていないかなって。

田舎に帰省したとき、「なんでこんなにやる気ない?」「家庭の夫婦喧嘩を持ち込んでいる?」と思わずにはいられないような店員さんがどうも多いように、残念ながら感じてしまいました。

田舎という人の目に触れにくい場所に住んでいることで、知らず知らず、自分もそうなってしまうのがこわいので、人の振り見て我が振り……というのは以前より意識するようになりました。

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魚の目をしている店員さんもいい人のはず。

ぼくが面白い人間なら、帰り際にジョークでも飛ばして笑わせることができるのかもしれません。それができないぼくにできることは、出されたご飯をちゃんと完食することだとなぜか思い、その空港のレストランでちゃんぽんの汁までぜんぶ飲んだのでした。ちゃんちゃん。

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