「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」

詩のことはよくわからないけど、安西冬衛のこの詩は折りに触れて思い出す

一匹の蝶が波にうねる大海原の上をひらひらと飛んでいく。

その情景を思い浮かべると言いようのない悲しみが胸を衝く。

そしてああ自分もこの蝶のような存在だなと、思う。

フリーランスは、何の拠り所もなく大海原を飛ぶ蝶と同じ。

力尽きると落ちるだけ。

だれも助けてくれない。

しかし、景色は広いんだ。

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ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由(2)

最近、思う。

「思う」がつくキャッチコピーが多くないかと。

文末を「思う」で締めくくれば、なんとなくキャッチコピーっぽくなるからつけとけ、みたいな。

たとえばこんなコピー。

◎日本の時計は美しいと思う。
ぜんぜん思わんでいいと思う。実際に美しいんだから。「日本の時計は美しい。」と言い切ってくれたらどれだけ気持ちいいか。

◎日常でたまった疲れは、日常でとれないと思う。
わざわざ思わなくても、「日常でたまった疲れは、日常でとれない。」ではなぜだめなのか。なぜストレートに言ってくれないのか。

コピーライターの川上徹也さんは著書『こだわりバカ (角川新書)』で、「空気のように何の効果もないようなフレーズ」のことを「空気コピー」と揶揄されている。「思うコピー」の多くも「空気コピー」だったりして??

◎ブラで女の一日はけっこう変わると思う。
お、おう。。ぼくは知らんけど、そう思うならそうなんでしょう。でも、なぜ「変わる。」で締めてはいけないのか。「けっこう」をつけているんだから、断定を避ける目的の「思う。」はいらないはず。

◎日本人の味覚は世界一繊細だと思う。
ぼくが「思うコピー」に違和感を覚えるきっかけになったコピー。お茶のCM。全体的に味のあるCMなので、ある意味で「思う。」という語感がCMの雰囲気をやわらかく包み込んでいい感じになっているかもしれない。

だけど、仮に「日本人の味覚は世界一繊細です。」としてしまうとコピーになりませんね。ということは、コピーにならない一文を「思う。」という文末表現でごまかしているのか。まあ広告規制にひっかかるのかもしれないけど、なんかもやもやしてしまう。

コピーライター時代に気の利いたコピーが一本も書けなかった元コピーライターは思うのであります。

◎賃貸住宅を変えるのは、木だと思う。
これも最近気になった一本。そもそも、だれが思ってるの? 「賃貸住宅を変えるのは木です。」と言い切ったらふつうの一文になってしまうしちょっと意味もわからないし、広告文はむずかしいですね。

◎言えないことの方が多いから、 人は書くのだと思う。
ほんとそうだと思う。ラブレターもそうですね。でも、このキャッチコピー、上のコピーと同様、だれが思ってる? 「思うコピー」全般にいえることだけど、雰囲気に乗せられて「そう思わされている感」があるのがきもちわるい。

ちなみに、これと同じようなコピーで好きなのはコレ↓

◎言えないから、歌が生まれた。
ミスチルの『君が好き』のキャッチコピー。いいなあ! こんなコピーを一度でもいいから書いてみたいなあ!

◎老いてゆく姿を孫に見せること。それも教育だと思う。
どれもこれもたしかにそうなんです。でも、しつこいけどなぜ「思う」のか。このコピーも同様、「老いてゆく姿を孫に見せること。それも教育です。」としてしまうとコピーにならない。文章の座りがわるいというか。じゃあ文末表現の「思う。」は、座りを良くするためだけのものなのか。

◎昼寝の姿を子どもに見せること。それも教育だと思う。
いま考えました(笑)。こんなアホみたいなコピーすらも、下手すれば広告になってしまいそうな盲目的な感じが広告にはありますね。

一方。

こんな「思うコピー」もあります。

◎年賀状は、贈り物だと思う。

ん?

なぜか「思う。」が気になりにくい。「空気コピー」との違いはなんだろうか。消費者が漠然と思っていること、期待していることをあたたかく、絶妙に言語化してくれているからかもしれない。

このコピーは誰が書いたんだろうと調べると、岩崎俊一さんだった。仲畑貴志さんと並んでぼくが好きなコピーライターの二大巨頭。岩崎さんは2014年に亡くなっていたと知りショックを受ける。

そして次のコピー。

◎私がきれいになることも、親を幸せにすることだと思った 。

これはいい!

結婚式のコピー。なんでいいのかなと考えると、主体があるからかも。「私」という主体があるからこそ、親を思う娘の思いをその一文から感じられるからこそ、読み手は主人公である「私」に共感できるのかもしれない。

反対に、「思う。」の主人公が不在の場合、読み手は無意識にその主体は広告主だと理解し、「思わされている」「誘導されている」と無意識に感じて共感できないのかも。

ちなみに、このコピーを書いた方を調べると、『大人たばこ養成講座』シリーズを担当された岡本欣也さんでした。この方も僕が好きなコピーライターのお一人で、なんと岩崎俊一事務所で活躍されていた方!

前述の「年賀状は、贈り物だと思う。」というコピーの広告主である日本郵政の仕事を、岡本さんは岩崎俊一さんと共に手がけられていたと。やっぱり好きなコピーを書く人はこうやってつながっていくなあ。

番外編

◎一流は勝てると思い。二流は勝ちたいと思う。
これもいいなあ。スポーツ選手の心理を言い当てている。そもそも何のコピーやろ。

まとめ

すっきりとした解決には至っていませんが、文末が「思う。」のキャッチコピーの良し悪しは、その一文に主体があるかどうか。だれが思っているのかというその存在がはっきりしていれば、コピーにストーリーが宿る。結果、消費者はその主人公に共感でき、コピー自体に意味と価値が生まれるのでは、と「思う。」

関連ページ:ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由。

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原稿や資料を印刷するときは「2ページ見開き」で一覧性をもたせたい

書籍ライターとして新しく担当させていただく本の案件の仕込中。

wordのコメント機能を利用し、テープ起こし原稿(インタビューの音源を文字に書き起こしたもの)の重要箇所に要約を書き込んでいます。

2時間のインタビュー音源を文字に起こすと、著者の話すスピードにもよりますがだいたい2万~3万文字になります。それだけの文字がだーとひたすら並んだ状態のままだと、どの箇所に重要な内容が書いてあるのかパッと見て判別つきません。だからコメント機能でポイントを抽出して要約し、視認性を良くするわけです。

この作業をやっておくと、実際に原稿を書く際に都合が良い。テープ起こしの地の文の横にポイントが並んでいるので、その要約部分をさーっと流し読みするだけで内容がつかめるからです。詳しい内容を再確認したい場合は、横の地の文を読めばいい。

書籍の原稿を書くまでには、ほかにもいくつかの作業のプロセスがあります。機会があれば公開します。原稿を書くのは最終段階で、それまでの仕込みがじつは大変だったりします。

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テープ起こし原稿に要約を書き込んだwordファイルは、2ページの見開き展開で印刷します。

理由は、一覧性を良くしたいから。

パッと見た際にできるだけ多くの情報を視認し、できるだけ多くの情報を一度に処理したいのです。1ページずつだと視界に入る情報が少ないから気持ち悪いというか、フラストレーションが溜まる。

テープ起こし原稿に限らず、仕事の資料やHPをプリントアウトする際も2ページ展開が基本です。

ふだん、見開きの紙の書籍で全体を捉えるのに慣れているからかも(?)

巻物になると左右に長すぎて、それはそれで面倒くさそう。2ページ見開きというのは、人間の視野の中でも焦点を合わせて内容を理解しやすい、調度よい画角なのかもしれないですね。

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「逆説の接続詞」をよく使う人は自分の頭で考えている?

これ(文章の展開がパターン化しない接続詞の使い方、いまだ模索中 )と似た内容ですが。。。

接続詞をなるべく使わない文章を心がけていますが、「逆接の接続詞」は例外的にけっこう使います。

文章を書く行為は極めて主観的、あるいは内省的な営みなので、ともすれば独りよがりの展開になってしまいかねません。書き進めるうちにどんどん悦に入ってきて、我に返ったときには読者を置き去りにしていた、みたいなことに陥ってしまう可能性もなきにしもあらずです。

そうやって書き手の独壇場で筆が進んだ文章は突っ込みどころ満載で、読者の頭の中は「?」のオンパレードになっていきます。

だから書き手は、読者が疑問に思いそうな箇所や反論をさしはさみそうな箇所を想定し、読み手の理解を手助けしていかなければならない。

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読者が「?」と思いやすいのは、たいてい書き手の意見や主張を述べている箇所です。「私はこれこれこう思うのであります」という書き手の主張に対して、「そんなことあれへんやろー」と突っ込みを入れる、みたいな感じです。

そうした読者の「?」を残さず摘んでいくためには、書き手は意見や主張の根拠、背景をていねいに説明しなければなりません。

そのとき、逆接の接続詞で自説を補強するのが効果的だったりするのです。

「私はこれこれこう思うのであります」と述べたあと、読者から「そんなことあれへんやろー」という突っ込みが入ることをあらかじめ想定し、「私のこれこれこういう意見に対して、それそれそういう反論があるでしょう。しかし、私はほれほれほういう理由でこう考えるのであります」といった具合です。

この展開は、あまり多用すると説教じみてうるさいので注意しないといけませんが、読者に寄り添った文章にしたいという書き手の努力が表れた結果だと個人的に思っています。

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むずかしいことは抜きにして、文章を書く際に「逆接の接続詞」を日常的に多く使う人は自分の頭で考えている人、ともいえるんじゃないかと最近思ったりします。

「しかし」や「だけど」という接続詞は、自分の考えがなければ使うタイミングは多くないですから。

話し言葉で「しかし」ばっかり言ってる人は友だちになりたくないですけど(笑)

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※ちなみに接続詞に関する好著はこちら『文章は接続詞で決まる (光文社新書)』。接続詞の役割と効果的な使い方が凝縮した一冊で勉強になります。

あとこんな本『文章が一瞬でロジカルになる接続詞の使い方』も。論理的な文章の書き方について、このページで書いたのと同じようなことが書いてありましたので参考に。

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人間の体も仕事の姿勢も軸が大事

人間の体は数千、数万のバランスによって成り立っていると個人的に思っています。

ひとつ崩れると、その崩れを補うためにほかの箇所が崩れ、その崩れを補うためにまた別の箇所が崩れ……そうやって際限なく崩れ支え合いながら、全体として体の均衡が奇跡的に保たれている。

ある意味で非常に危うい状況です。まるで小さな子どもが積み上げた積み木のように。

うちの4歳の娘は積み木をむちゃくちゃに重ねていくけれど、なぜか崩れずけっこう高くまで積んでしまいます。人間の体も同じやなあと、それを見て思ったりします。

だから軸をつくったジョギングを重視しています。

軸足の接地面から脳天まで軸を通し、トントンと振動を体に加えながら走る。そうすることで、まるで不揃いの積み木が軸に沿って揃っていくようなイメージで体のバランスが整っていく(というイメージを持つ)。ジョギングする際に軸はとても大事です。

仮に軸がずれた状態でジョギングしてしまうと、そのずれた軸に沿って体が再調整されていきかねず、全体として体のバランスが崩れてしまいかねません。

客観視するのはむずかしいですけどね。だからカイロや整形外科で外部の目を入れる。正しい軸が通っているのかを客観的に評価してもらう。主観的な判断だけでは自分の体を見極めるのは不可能です。

軸が大事というのは、体づくりだけでなく、仕事の取り組み姿勢や生き方にも通じるなと最近よく思います。

ぼくの仕事における軸はこれです。

「職業は編集ライター、仕事は一人でも多くの人の役に立つこと、一人でも多くの人に感動や喜び、希望を与えること。」

この軸に沿ったことをやる、ずれたことはやらない。そう意識して仕事に取り組んでいます。

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文章の展開がパターン化しない接続詞の使い方、いまだ模索中

「そして」や「また」といった並立の接続詞はなるべく使わないよう意識しています。

とくに1000文字程度の短いインタビュー原稿を書く際は、一度でも使った時点で「負け」と思っているので基本使わない。並立の接続詞を使用した時点で論理展開が破綻している可能性が高いからです。書籍の原稿はさすがにゼロというわけにはいきませんが、安易に用いないよう自分を戒めています。

並立の接続詞には、前後の文や文節をつなぎ、そのつないだふたつの文・文節が対等関係にあることを示す役割があります。

そもそも前後の文脈がしっかりしていれば「そして」や「また」をわざわざ入れる必要はないし、入れないと意味が通じない文章であるのならすでに何らかの論理破綻をきたしていることになります。後者の場合は接続詞に頼るより、文章の展開自体を見直したほうがいい、そう思っています。

と言いながら、つい〝手がすべって〟不必要な箇所に使ってしまっていることはたまにあります。

並立の接続詞に限らず、接続詞はできる限り使わないで文章を書きたいと意識しています。接続詞が少ない文章は、まるで清流に身を任せて川面をすべる小舟のように、意味が淀みなく流れていくから読んでいて気持ちいいです。

しかし、と「しかし」をここで使ったように、逆接の接続詞は例外的によく使用します。川の水面に頭をのぞかせる小岩のごとく、小舟をくるんと逆転させる効果があるからです。

「ぼくはこれこれこう思う。それはこれこれこういう理由です。そうやってこれこれ思っているぼくの意見に対して、それはほれほれだろうという反対意見があるのも理解しています。しかし……」

というように、自分の意見を主張したうえで反論をさしはさみ、その上で自分の意見をかぶせて補強するというような論文的な展開が必要になる場面がけっこうあります。

ある意味、それらしい文章を書く際に逆接の接続詞は便利だったりします。つい多用してしまいがちになるのですが、あまり頻繁に使用してしまうと文章がパターン化して読み手は腹立ってくるんですねー。

展開が読めてしまうというか。言いたいことが分かってしまうというか。

接続詞の使い方はむずかしいです。

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※ちなみに接続詞に関する好著はこちら『文章は接続詞で決まる (光文社新書)』。接続詞の役割と効果的な使い方が凝縮した一冊で勉強になります。

あとこんな本『文章が一瞬でロジカルになる接続詞の使い方』も。論理的な文章の書き方について、このページで書いたのと同じようなことが書いてありましたので参考に。

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ブックライターとして大切にしていること

ブックライターの仕事に誇りをもっています。この仕事が天職じゃないかと思うほどです。

なぜそう思えるのかというと、著者の方々が世の中の一人でも多くの人にどうしても伝えたい思いを直に伺い、それを一冊の書籍にまとめる大役を任されているからです。ライターが書く原稿の良し悪しで本の出来が決まる、そういっても過言ではありません。

とはいえ、著者本人がペンを握るのが、やっぱりいちばんだとは思います。著者が書いた文章は多少難解な面があったとしても、そのひと言、その表現の選択に、本人にしか分からない経験や思考の痕跡が乗っかっているからです。

その言葉を紡いだ著者の深層心理は、いくらヒアリングを重ねて著者のことを理解したつもりになっていたとしても、ライターには到底踏み込むことができない神聖な領域です。著者から「私の言いたいことをうまくまとめてくれた」とお褒めの言葉を頂戴する機会もあるわけですが、それでも著者本人が汗を流して原稿を仕上げるのがいちばん濃い内容の本になると思います。

ブックライターの自分の存在意義を否定するのかと思われるかもしれません。しかし矛盾するようではありますが、ブックライターがいるからこそ世に出ることがなかったかもしれない宝物のような情報が掘り起こされて一冊の書として編まれ、その宝石のような本が書店に並び、必要とする読者の手に届き、感動や喜びを与えられるようになるのもまた事実です。

著者の思いが読者に届く、これはほとんど奇跡です。その奇跡を起こす当事者のひとりとして、現場に立ち会えるこの仕事に誇りを感じるし、なにより面白くないわけがない。

ぼくのプロフィールは、「職業は編集ライター、仕事は一人でも多くの人の役に立つこと、一人でも多くの人に感動や喜び、希望を与えること。」という一文でしめくくっています。

一介のライターに過ぎませんが、「書籍を通して一人でも多くの人に著者の思いを届ける」のがぼくの「仕事」かなと思っています。

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一冊の本を書くためには「軸」と「流れ」が必要

いま新しい書籍の原稿を書くための下準備をしています。

テープ起こし(取材の音源を書き起こした資料)や各種の関連資料をひたすら読み込み、書籍全体の「軸」と「流れ」を〝自分のもの〟にするための儀式です。

単発のインタビュー原稿であれば取材後にパッと取り組めますが、一冊まるごと書く場合はこの儀式を経ないとこなれた文章が書けない気がしています。

書籍全体を串刺しにする軸が腑に落ちていないと内容や表現が揺れるし、流れが自分のものになっていないと項目ごとに内容がぶつ切りになってしまうからです。

この儀式は、ただ資料を読んでいるだけといえばそれだけなのですが……とにかく腹が減る!

アホな頭の内部のどこかがたぶん局所的にフル稼働していて、ブドウ糖をものすごい勢いで消費していると思われます。

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この儀式を終えると、次に各章の項目出しと、それぞれの項目のキーワードを並べていきます。構成づくりですね。

ここで書籍全体の流れをさらに脳みそに浸透させていきます。こういう地道な作業を続けるうちに、書籍全体の軸と流れが自然な感じで身になっていく実感があります。

この実感がつかめるころになると、それまでこんがらがっていた情報が理路整然と整理され、実際の原稿の書き出しや内容がおぼろげながらイメージできるようになっていたりします。

そうなると、あとはキーワードをひたすら打つのみ。原稿を書くのは、思考作業を終えたあとの肉体労働、みたいな感じです。

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ところで、ライターさんによっては書籍全体の流れや章ごとの展開に関係なく、書ける項目から先にどんどん書いていって、途中でつなげて全体の流れを整理する人がいるみたいなのですが、ぼくは絶対にムリ。

軸と流れを頭に叩き込んだ状態で、実際に本を読むように1章のはじめから順番に書いていかないと全体的にぎこちない内容になってしまう。最初から書かないと気持ち悪いというか。

いま思いついたけど、お遍路さんの逆打ちのように、本の最後から最初に向かって書いていくとどうなるやろ(笑)。そんなことやるわけないけど。

でも雑誌は最後から読むのが好きだったりするんですけどね。

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「性根」を知ってもらうブログ

このブログを立ち上げて3ヶ月半ほど経ちました。

最初は堅苦しい内容をがんばって書いていましたが、続けるうちにいい意味でどうでもよくなってきました(笑)。肩の力が抜けてきたというか。

このブログをつくる際にいちばん考えたのは、「誰に何を伝えるか」ということでした。

たとえばこのブログに仕事を得るという目的をもたせるのであれば、もっと明確なコンテンツをつくれたはずです。自分の仕事の実績をバーンと出して、ライティングスキルを分かりやすく解説するようなハウツーを書いたりして。

でもそういうブログにはしたくありませんでした。

じゃあ、誰に何を伝えるの?――。

その堂々めぐりにはまり込んでいました。

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これまでも自分のサイトやブログを幾つもつくってきたわけだし、今回も新たにブログをひとつ立ち上げるくらいでそこまで悩む必要もないにもかかわらず、あーだこーだ考えているとき、妻がいい言葉を教えてくれました。

「性根」

「ライターとしての性根を伝えるブログにしたらいいんちゃうの」――と。

「性根(しょうね)」を辞書で引くと、「その人の根本の心構え」「心の持ち方」といった意味が出てきます。大ファンの宮本輝の小説で「心根」という言葉が出てきて大切にしていますが、性根もその心根に似た言葉のようです。

仕事でも何でもそうですが、人や社会に役立つことをしたいなと思ったとき、何をするかも大事ですが、誰とするかはもっと大事なように思います。

同じ志やビジョンを持って誰かと何かをするためには、まず自分とは誰かをさらけ出す勇気が必要だと、嫁さんから性根という言葉を聞いてすんなり腑に落ちました。

結果として、このブログでは自分がふだん大切に思っていること、考えていることなどを、内容的には面白くなくても地道に書いていこうと決めたのでした。

ただし、まったく脈略なくひとりの人間の思いを垂れ流してもあれなので、3つの立場に切り分けて、それぞれの立場に沿った内容を意識しながら書いていくことにしたわけです。

だからなんというか、このブログは全体的に何がしたいのか分かりにくいサイトではありますが、自分という人間をさらけ出す受け皿になってきたかなという感触はあります。

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ついでに付け加えると、このブログの立ち上げは自身の仕事の経験やスキルを見つめ直すきっかけになりました。

その思考の延長線上で「企業出版」に関する何らかの事業を展開しようかなと、新たなアイデアが生まれていま準備中です。当初はその事業内容をこのブログ内で公開していきますが、ある程度全体像が固まった段階で別サイトを立ち上げる予定です。

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ハンマー投げの室伏選手が語ったひと言に衝撃

きのう、家族で外出先から帰宅してテレビをつけるとタイミングよく陸上のゴールデングランプリ川崎が行われていました。

男子100メートルは9秒台の重圧と向き合う桐生選手、ボルトが持つ200メートルの世界ユース大会の記録を破った高校生サニブラウン選手、2012年のロンドン五輪で準決勝に進出した山縣選手と、3名の日本人選手が名を連ねて手に汗握りました。

結果は2015年世界選手権銀メダルのガトリン選手が10秒02(-0.4)で制し、2位は10秒21で走った山縣選手。桐生選手は4位に沈み、サニブラウン選手は5位でした。

世間的には桐生選手の記録更新も待ち望まれますが、ぼくは山縣選手の復活が嬉しかった。

ロンドン五輪後は怪我に苦しみ、その後は桐生選手とサニブラウン選手にスポットライトが切り替わり、山縣選手がメディアに登場する機会はめっきり減っていました。

辛かっただろうなと思う。インタビューで山縣選手が「緊張した」と何度も言っていたのが印象的で、意識しないわけにはいかない2選手と並んで走るという極限状態の中で競り勝つというのは実力意外の何ものでもない、そう感じました。

***

同時に、走るたびに9秒台を期待される桐生選手も気の毒だと思いました。

100mの記録は心身の調子だけでなく、風向きや気温、天候などの気象条件も大きく左右します。すべての条件がピタリと整った状態でようやく「出るか、出ないか」――という勝負の世界なので、毎回、結果だけを見て「9秒台突破ならず」と評価されると酷だと思う。

でも本人の口から外部環境を引き合いに出して、記録が出なかった理由を説明するなんてできませんからね……。

***

とはいえ勝負の世界では、ここ一番で勝つ選手が強いです。残酷なほどに結果がすべてです。プロセスも大事というけれど、いくらプロセスが充実していても、結果が出なければ意味がない。それが勝負の世界です。

でも……。

ハンマー投げの室伏選手のこの言葉を知って鳥肌が立ちました。

「投げるのは、結果」

将来有望な高校生のハンマー投げ選手に室伏さんが教える番組を以前やっていました。

「投げる前の準備動作や体のつくり方、フォームのつくり方、日々の練習、そこですべてが決まる。投げるのは、結果」

こう語る室伏さんの言葉を高校生がどれほど理解していたかはわからないけど、テレビの前のぼくは口から泡を吹いて倒れるほど衝撃を受けました。

「投げ急ぐ」という言葉がありますが、結果を求める気持ちが強いほど体の動きのバランスが崩れ、記録はでません。そうではなく、投げるまでの準備に最善を尽くせば、あとは「投げる」という投擲動作そのものですらが結果となる。

室伏さんにとっては、もはや記録は結果ですらないかもしれない。記録は「おまけ」程度というか。

いや、室伏さんの言葉の真意を推し量るすべはありませんし、ぼくの理解力で表現するには無理があります。それでも、ハンマー投げという競技を超えて修行僧のように鍛錬を重ねる室伏さんの表情には、記録を短絡的に追求しているのではないという思考の痕跡が刻み込まれているように感じます。

***

これまでのプロセスの結果である競技動作の、さらにそのおまけでしかないかもしれない記録を、目標として追い求める矛盾と難しさ。このプロセスと結果の葛藤を乗り越えた選手が真に「強い」ということか。

9秒台が常に期待される桐生選手もそうだし、国内外の第一線で活躍する陸上選手には、ほんとうに頭が下がります。

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