新婚旅行のお遍路さんで目にした看板のキャッチコピーに感動。

前回の記事(『ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由。』)を受けた内容をちょっと。

じつはうちの新婚旅行は四国のお遍路さんでした。当初はウィーンやブダペストといった音楽の都をめぐるおしゃれな旅を企画していて実際に予約までしていたのですが、ある日、妻から「やっぱりお遍路さんに行かへん?」と提案があり、ぼくも「ええやん!」と激しく同意(笑)して決まったのでした。わざわざ予約をキャンセルまでして。

さておき。

お遍路さんでは嫁さんと二人、一番札所の「霊山寺」から順打ちで歩いてまわりました。会社を休めるのは一週間程度だったので、十五番札所あたりまでたどり着くので精いっぱいでした。楽しかったな~。札所では「納札(おさめふだ)」と呼ばれる紙札に氏名を書いて納めるのですが、結婚して苗字が変わったばかりの嫁さんは「札所をまわるたびに『高橋』と書くので、少しずつ高橋さんになっていく気がする」と、ぽろっと言ったのが印象的で、内心嬉しかったのを思い出します。

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さておき。

徳島の町を二人、白装束で歩いているとき、数十年前のレトロな学生服の看板をみつけました。まっさらな学生服に身を包んだ中学生くらいの男の子が、希望に満ちあふれた表情で遠くを見つめています。

キャッチコピーは、このひと言。

「夢中になろうよ。」

抜群にいいコピーだと思った。

同じ看板で、別タイプのコピーもあって。

「未来は、ぼくの中にある。」

心を打つ広告のコピーって、こういうことなんだと思った。

期待と不安が入り混じった、なんとも言えない思いを抱く中学一年生。そんな彼ら・彼女らの背中を力強く、愛情深く、優しく押してあげる言葉。

言葉には力があると、再認識しました。同時に、広告コピーは嫌いでしたが、ちょっとだけ好きになったのでした。

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広告の費用対効果を数字ではかるのが難しかったひと昔前は、こうした人情味あふれるキャッチコピーも多かったように思います。でもいまはウェブと連動し、成約率が具体的に測定できる時代です。広告のキャッチコピーはコンバージョンをより重視した表現になっているように思う。

それじゃあ味気ないなあと思うけれど、漠然としたコピーもそれはそれで「その先へ。」みたいになるとこそばいし。キャッチコピーは難しいですね。

新婚旅行でお遍路さんに行ってからもう9年。思い出深いエピソードもあるのでまたお遍路さんネタで書こうかなあ。

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ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由。

いまから10年近く前、「その先へ」という言葉がつくキャッチコピーが氾濫した時代がありました。「その先へ」と書けばコピーらしくなるからつけとけ、みたいな。

たとえばこんな感じで。

◎おいしさのその先へ。
おいしさの先にいったい何があるというのだろうか。

◎ナンバーワンの、その先へ。
ナンバーワンの先にいったい何があるというのだろうか。
おいしさ編と少し違うのは、「その先へ」の前に「、」がついて、「ため」ができたくらい。
でも、一瞬ためて読んだところで、その先に待っているであろう楽しい未来の期待やイメージがふくらむわけではないように思う(のはぼくだけ?)

◎白さの、先へ。
これは洗剤のCM。白さの先は何色なのか。いや、言いたいことはわかるんです。真っ白になった服を着てデートを楽しんだり、家族の時間を豊かにしたり。そんなバラ色な感じの、クオリティライフ向上的な感じの充実感のイメージを、「その先へ」というひと言に託してしまうという、そのカッコつけた感じがこそばいんですね。。。

◎さあ、その先へ。
……笑。もうなんでもありですね。このコピーを読んで、「よし、その先へ行こう!」とだれが思うんでしょう。

ほかにも、「限界のその先へ」とか「優勝のその先へ」とか、その先だらけ。最終的には、「その先のその先へ」とか、「その後へ」とか逆張りパターンも登場してくるんじゃないかと期待していたら、このブームはいつしか収束していました。

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「その先へ」が氾濫するきっかけは、たぶん、JR東日本の広告だと個人的にふんでいます。

◎その先の日本へ。

これは、「男は黙ってサッポロビール」を書いた秋山昌さんという超メジャーなコピーライターさんが書かれたコピーです。このJR東日本の広告が出た当時、ぼくはやっぱり頭がわるいのか、「その先の日本って何?」と思ったもんです。

ぼくがいちばん好きなコピーライターの仲畑貴志さんが、〝何か言っていそうで何も言っていないコピー〟のことを、次のひと言を例にひいて揶揄されていたのを思い出します。

◎夢、それはドリーム。

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ぼくのライター人生はコピーライターからスタートし、「コピーの書けないコピーライター」と自虐するくらいコピーが書けませんでした。上記は一例ですが、けっきょく広告のキャッチコピーの嘘っぽい感じというか、枠にはまった感じが好きになれず、出版の世界に身を転じていまに至ります。

とまあ、こんなことを常日頃から考えているぼくは、数年前、大阪梅田のビッグマン(紀伊国屋書店梅田本店の前)から地下鉄御堂筋線に向かう階段を下りていたとき、ある看板広告が目に留まり、あやうく足を踏み外して落ちそうになりました。

◎語学の、その先へ。
なんと、母校の大学のキャッチコピーだった(笑)。

「おい、その先シリーズを継承してもてるやん……」。残念に思ったけれど、このコピーに関しては語学を身につけた先の未来がなんとなくイメージできるのでよしとしよう、と自分を言い含めたのでした。

関連ページ:ぼくが広告のキャッチコピーが嫌いな理由(2)

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「まとめ記事」をかいくぐり、価値ある情報にいかにたどり着くか

改めて思いますが「まとめ記事」が多いですね。世の中のあらゆるテーマについて、それはもうまとめまくられています。

このブログはワードプレスでつくりました。初めて使うシステムなので「???」の連続で、ワードプレスの使い方に関する検索をたびたびかけました。

そこで目につくのはことごとくまとめ記事。目次も設けてまとめられているのですが、内容が薄かったり、肝心のいちばん知りたい内容が抜け落ちていたり。とくに不親切だと感じたのは、ページタイトルの答えが明確に説明されていないケース。

ユーザーは何か解決したい問題があって検索窓にキーワードを打ち込みます。そのキーワードでヒットしたページのタイトルは、ユーザーが抱える問題の答えを表しているのであって、当然ながらページ内には具体的な解説がないとおかしいですよね。

でも、読み込んでいくと、ページタイトルと微妙にずれた内容がサラッと書いてあるだけ。ネットの記事が読まれるかどうかはタイトルにかかっているという。でも書籍と一緒で、実態の伴わない釣りタイトルは読者を裏切り、その影響はいずれ運営者にはねかえってきます。

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内容が薄い理由はかんたんで、そうしたまとめ記事は運営者本人が自分の利益のために書いているから。検索数の多そうなテーマを拾ってまとめ記事を無数に書いて、ページビューを増やして広告収入を得るという。

でもなかには職人的に上手にまとめてあるブログもあって、そういう記事を読むとテーマについての全体像をつかめるし、気になった内容を追加で検索をかけて調べるという、道しるべみたいな役割を果たしてくれて助かります。

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厄介なのは、まとめ記事はSEO的にはバッチシなので、検索サイトの上位にことごとく出現してくること。ネットを使うほうはフィルターを一枚増やし、そういうのをかいくぐりながら有益な情報にアクセスする感度とテクニックが、これまで以上に必要になってきたように思います。

検索エンジンのアルゴリズムは日々変化しているので、そうしたユーザー本位でないまとめ記事は、ある日突然、いっせいに検索結果から消される日が来るかもしれません。

ともあれ、情報があふれる時代。どういう立場の人が、どういうテーマについて、どのような切り口や視点を持っているのか。単なる情報ではなく、いち個人が発信する「コンセプト」みたいなものがより求められる時代になったと個人的に考えています。

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リアルよりウェブのほうが人見知りする?

このブログは2016年2月1日にオープンしたので、今日時点で1ヶ月と少し経ちました。

なんというか、思いのほか苦戦しています。苦戦というのはアクセス数がどうのこうのという外部の反応ではなく、手ごたえがいまいちつかめないという内面的な問題。

とにかく文章が硬くなる。かしこまった感じになる。就職活動に励む学生がスーツを着こなせていないのと同じように、ブログの文章にこなれ感がないというか。ライターなので文章を書くのはプロなわけですが、自分のことになると、とたんにペンが無口になってしまう。

こういう状態は、ブログ立ち上げ直後に多くの人が陥るみたいです。なにかいいこと言わないといけない、ちょっとしたものの見方や独自の切り口を披露したい。そうやって背伸びした結果、ふくらはぎがつって立っていられなくなる。

ここからが勝負かもしれません。ふくらはぎがパンパンにはってきて、賢そうな記事を書こうとしてもいよいよネタが尽きてきて。開き直ってからがほんとうのブログのスタートなのかもしれません。

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ウェブでの情報発信という意味では、2000年にHTML手打ちで独自サイトを開設、2005年頃にはアジア旅行記のサイトを立ち上げ人気サイトに育ちました。フリーランスになった2008年には陸上のトレーニングブログをつくり、マニアックな情報発信を続けてきました。ウェブ遍歴はわりと長いのに、そしてこれらのサイトやブログでは自分らしさをおそらく出せていたのに、このブログはいまいちつかめない。

なんでかと考えると……

・書いている本人が楽しんでいるか
・だれに向けた記事なのか、ディスプレイの向こう側の人が見えているか
・だれの役に立つ記事なのか
・自分をさらけ出す覚悟があるか

このあたりが漠然としている点に問題があるかなと思えたり。

ところがいざディスプレイの向こう側の「あなた」に向けて何かを伝えようと思うと、なぜか恥ずかしい(笑)。

これまで運営してきたサイトやブログはプライベートなものでしたが、このブログは仕事の肩書き(走る編集ライター)の受け皿的意味合いを持たせている点ももやもやと関係しているかもしれません。

いずれにせよ、リアルの対面だとお互いを見せ合うわけだけど、ウェブの場合、ディスプレイの向こう側の「あなた」はぼくにはわかりませんから。

もしかすると、ウェブのほうが、(空想の)人見知りをしやすいのかもしれない。

ということがわかったこの1ヶ月でした。

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【活動記⑨】将来的に地元にUターンすることを見越して神戸の会社に就職

前回の記事はこちら→『【活動記⑧】ライターにつながる道を模索して印刷会社に入社。ところが……

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大学卒業後に入った印刷会社を退職後、ぼくはどうしたか。中島らも師匠の経歴を思い出し、コピーライターの学校に通うことになります。師匠は印刷会社で働きながら宣伝会議のコピーライター養成講座に通っていたというのを知り、ならばということで自分も同じ門をたたいたのです。

こう書くとまったく主体性のかけらもありませんが、実際に当時のぼくには主体性のかけらもありませんでした。それでもライターになるという目標だけは見失わずに過ごせたのは、将来ビジョンだけはしっかり描いていたから、かもしれません。

退職後と書きましたが、実際には印刷会社を辞める前からコピーライター養成講座に通わせてもらいました。講座の場所は、大阪本町の靭公園の横のビル。少し早めについた日は靭公園で時間を潰して……このころがいちばん辛かったですね。

陸上を辞めて社会に出たものの、仕事はうまくいかないし、ライターになれるかどうかもわからない。陸上競技は目標を持ち、その目標に向けて努力することができた。でもライターという目標の場合、努力のしかたがわからなかった。あるいは努力をしたつもりでも、まったく方向違いかもしれない。それがわからない……。

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つかみどころのない毎日に漠然とした不安を覚え、それでもなんとか講座は修了。印刷会社は受講中に退職し、パチンコ屋で派遣で働きながら口を糊する日々。

その後は東南アジアを放浪したりもしながら(笑)、ようやく『「どうやってライターになったんですか?」』で書いたように大阪の広告制作プロダクションに拾ってもらいライター生活がスタートすることになります。

広告制作プロダクションでは4年弱働き、コピーの基本を厳しく叩き込まれました。これは自信を持って言えることですが、仮にコピーライターが1000人いたとすると、999人目にコピーが下手くそといえるほどコピーが書けませんでした。指導してくださった先輩や社長は苦労されたはずです。それでもさじを投げることなく、ねばり強く指導していただいたからこそ、いまの自分があります。大変感謝しています。

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広告制作プロダクションを退職後、出版社を傘下に持つ神戸の会社に就職。主に書籍の編集やライターの仕事をするようになりました。将来的に地元にUターンすることを見越して兵庫の会社を探していたこと、また面接時に社長さんがぼくの将来ビジョンを認めてくださったことが入社の決め手となりました。

次の記事はこちら→『【活動記⑩】「君は何で田舎にこだわるんや?」

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【活動記⑧】ライターにつながる道を模索して印刷会社に入社。ところが……

前回の記事はこちら→『【活動記⑦】中島らも師匠に影響を受けてライターを志す

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「どうやってライターになったらいいんやろか?」

大学時代に就活をした際、ライターのなり方がわからずに広告代理店の面接を受けようとしたものの、すでに代理店の採用活動は終了済み。

次にぼくが目をつけたのは印刷会社でした。

当時、心酔していた中島らも師匠が印刷会社から社会人人生をスタートされていたからです。

「なんで印刷会社なんやろ?」

そう思いながらも資料を調べていると、クリエイティブ部門を持つ印刷会社が多いことに気づきます。そこで数社の会社説明会に参加、京都の印刷会社から内定をいただきました。

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その印刷会社は社員数がたしか700名(当時)ほどで、業界では中堅に位置する会社でした。わりと大きなクリエイティブ部門を持ち、デザイナーやコピーライターも在籍していたのです。

ですが新卒で入ったぼくの所属はクリエイティブ部門ではなく、本社の営業部隊。クリエイティブ関係の採用は中途が多かったんじゃないでしょうか。とにかく師匠と同じ経歴の第一歩を踏み出せたことに胸をなでおろし、社会人としての歩みを始めることになります。

ところが、経緯は省きますが新卒で入ったその印刷会社を2年弱で退職することになりました。理由は、社会と組織に適合できなかった、陸上以外は何をやってもダメだった、ということに尽きます。

当時のぼくは社会人として生きていくにはあまりにも未熟で、自分を保つことができなかった。入社3年以内に辞める新卒が社会問題になって久しいですが、ぼくはその走りといってもいいかもしれません。

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会社に伝えた退職理由は「ライターの道をめざしたい」ということでした。この点において自分の信念はブレていないわけですが、投資をして新卒人材を採用した会社側に立ってみれば「なにあほなこと言うとんねん」ということになります。

にもかかわらず。

にもかかわらずですよ、上司は「高橋君、ライターになりたいんやったら、うちの会社のクリエイティブ部門に異動してコピーライターになったらどうだろう。話をつけてあげるよ」とまで言ってくださった。

にもかかわらず。

にもかかわらずですよ、ぼくは一度辞めると伝えてしまった手前、そのあたたかい上司の配慮もお断りして退職したのです。しかも送別会まで開いてもらって……。ほんとうに恥ずかしい限りです。

こうして振り出しに戻ってしまったぼくは次、どうしたか。

またまた、中島らも師匠と同じ経歴を辿ることになります。

次の記事はこちら→『【活動記⑨】将来的に地元にUターンすることを見越して神戸の会社に就職

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【活動記⑦】中島らも師匠に影響を受けてライターを志す

前回の記事はこちら→『【活動記⑥】高校生時代に決めたビジョンが進路選択の決め手に

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高校時代に決めたビジョンに向けて選んだ道。それは「ライターを目指す」ということでした。

田舎の自宅で家族とともに好きな仕事をして暮らすといっても、果たして田舎に自分が打ち込める仕事なんてあるんだろうか。

そう考えたとき、別に企業に勤めるわけではないんだから、「自分が興味のあることを仕事にしたらいいやん」とごく自然に思ったんです。

じゃあ興味のあることは何かと思いめぐらせたとき、ふと浮かんだのが「ライター」という職業だったのでした。

なぜライターだったのかというと理由は単純で、当時、中島らも師匠に心酔していたから(笑)

師匠の小説は叙情的でときに苛烈で、切なくて、美しくて、いい意味で衒学的で破滅的で……ほんと好きやったな~(『今夜、すベてのバーで (講談社文庫)』とかね)。その師匠は小説家になる前に広告のコピーライターをしていたのを知っていたので、「よしおれもコピーライターや!」と大学生なりに「なりたい自分」を決めたわけです。

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ライターを選んだ現実的な理由もあります。

就活をした1999年はウィンドウズが登場してインターネットが普及し始めていた時代でした。就職活動中はパソコンは持っていませんでしたが、「ライターになれば仕事道具はパソコンになる。パソコンがあれば田舎でも仕事ができるじゃないか」という、単純すぎる思考回路でライターという職業と将来ビジョンを結びつけたのでした。

ところが、ここでハタと立ち止まります。

「どうやってライターになったらいいんやろか?」

これが意外にわからないんです。

インターネットはまだまだ黎明期でネットで調べ物をするという手段は一般化していません。当時はハガキを使って企業の資料請求をしていた時代ですから。

そこで大学の入試課に行って就活本で調べたところ、どうやらコピーライターは広告代理店にいるらしいということがわかった。

「よし広告代理店だ!」

ということで資料請求をしようとしたものの、主だった代理店の企業説明会や採用面接はすでに終了しているという悲しい現実が……。

出鼻をくじかれ、自分のキャリアプランは早くもとん挫したかに思ったけれど、そこでまた中島らも師匠が頭に浮かんできました。

「たしか師匠は社会人一発目、印刷会社に勤めていたな」と――。

次回の記事はこちら→『【活動記⑧】ライターにつながる道を模索して印刷会社に入社。ところが……

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